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準文明の研究2(準文明とは何か)U

2022-06-12 12:50:47 | 論文

第二部 準文明とは何か。

 

【準文明の定義】 

 

 準文明とは、文明のように「国際的に影響力を持ちうるモラルシステム」を構築した文明ではなく、「ほぼ一国的な意味において独自なモラルシステム」を構築した文明であり、また程度こそ異なるがある程度、四文明のどれかの影響下にもあった、「衛星的な要素」をも持つ文明である。

 

 そうした、より小型の文明である準文明は四文明に影響を受けながら衛星のように生存することもあったため、準文明とよぶのであるが、空間的な意味における存在のあり方として、大きく四つの型に分類することができるかと思われる。①植民型、②浸透型、③辺境型、④融合型がそれである。

 

【準文明の四つの型について】

 

 シンプルなものから、複雑なものへ準文明の型を並べると①植民型準文明、②浸透型準文明、③辺境型準文明、④融合型準文明となる。植民型準文明としては、オーストラリア、南米、北米が挙げられ、浸透型準文明としてはアフリカ、ユーラシア(ロシア)が挙げられる。また辺境型準文明としては極東(日本や朝鮮)、極西(イギリスや北欧)が挙げられ、融合型準文明としては東欧や東南アジアが挙げられる。

 

【準文明、四つの型の特徴】 

 

 それぞれの準文明の特徴について、考えていこう。

 

 植民型準文明とは、北米やオセアニアのような、植民者が原住民に比較的大きな抵抗を受けずして、自らの理念に基づいて築かれた文明、または南米のように、原住民との接触や奴隷貿易など通して植民者が原住民及び奴隷と共存する形で築かれた文明とに大別される。

 

 浸透型準文明とは、アフリカ大陸のように北部及び東部からイスラム勢力によって、西部及び南部からヨーロッパ勢力によって原住民が制圧されていった文明や、ユーラシア(ロシア)のように西部からヨーロッパ勢力、東部からトルコ、モンゴル勢力によって原住民が制圧されていった文明が挙げられる。

 アフリカもユーラシアも奴隷貿易の発祥地であったし、そのためにその周辺にあった「文明」の支配を受けることになったが、アフリカは原住民が文明の中心に戻るとともに、多様性を認める文明を形成しようともしてきている。こうしたことは植民型の南米と似たアプローチといえるだろう。

 それに対してユーラシア(ロシア)は原住民による復活はごく最近まで弱く、トルコ、モンゴル勢力が支配した時代の後、ロシア勢力が支配する時代が来た。トルコ・モンゴル、ロシア両者とも原住民の支配は比較的ゆるやかなものだったかもしれない。

 

 辺境型準文明とは極東(日本、朝鮮)のように中国文明の辺境にあって、その文明に多大な影響を受けたがまた、地理的に辺境あるいは孤立していたため、ある程度、独自の文明を自生させることもできた文明である。

同様に極西(イギリス、北欧)もヨーロッパ文明の辺境にあって、その文明に多大な影響を受けてきたが、極東と同じく、ある程度、辺境あるいは孤立していたため、独自の文明を自生させることができた文明であった。中心となる文明からの距離や位置によって個性に差が生じることとなった。また極西準文明がヨーロッパ文明に与えた影響は極東準文明が中国文明に与えた影響よりもかなり大きなものであったろう。そしてこの準文明には海の要素も大きく関係していた。

 

 融合型準文明とは東欧のように西欧(ヨーロッパ文明)、イスラム文明、ロシア準文明に囲まれた文明や、東南アジアのようにインド文明、中国文明に挟まれた文明であり、東南アジアはそれだけでなくイスラム文明やヨーロッパ文明によっても影響を受けた準文明であった。多様な民族、言語あるいは宗教を混在させた最も複雑なタイプの文明といえるだろう。時代によって影響を受けた文明も異なり、団結力についても周辺からの影響を頻繫に受けることから弱かった。現在、東欧はEUやNATOに加入し、西欧の影響下に入ったが、東南アジアは団結することにより、中国文明やインド文明に対して独自の勢力となって対峙している状況である。そのことは反面、東欧がロシア準文明やイスラム文明に対して閉鎖的な姿勢を示しているのに対し、東南アジアが中国文明やインド文明に対して開放的な姿勢を作り出しえていることを、逆に説明しているようにも思われる。すなわち融合文明において独自の団結の程度が近隣文明への開放の許容性の幅を逆に示唆しているともいえる。

 

 植民型準文明、浸透型準文明、辺境型準文明、融合型準文明それぞれ準文明の個性について簡潔に見てきた。分類の便宜上の観点からこうした概念を創ってみたが、植民型準文明と浸透型準文明とは似ているところもある。共に進出してくる植民が大きな意味を持っていたし、奴隷貿易の要素が大きな影響を持っていた地域でもあった。この二つの文明を分ける要素としては「原住民の抵抗力の強弱」があったかと思われる。植民型準文明は弱く、浸透型準文明は強かった。

 

 また辺境型準文明と融合型準文明は原住民の力がそもそもから強かった、自立していた文明といっていいかもしれない。しかし辺境型準文明は辺境であるがゆえに独自の文明として強力でありえたし、危機回避や僥倖にも恵まれたのに対し、融合型準文明は原住民の力はあったが、準文明内における内部対立も激しく、そのことが危機を招き、不運も多かった文明であったように思われる。

 

 準文明はこうした個性を持っているが、忘れてはならないことがある。いずれの準文明もそれぞれ主要な文明である四文明、中国文明、インド文明、イスラム文明、ヨーロッパ文明のモラルシステムに大きな影響を受けてきたということである。すなわち、近隣にある大文明によって準文明は「属人的な支配」を受けることもまた多かった。準文明の中では、文明における価値観の影響を大きく受けた一部勢力の支配力が強かったこともあった。しかしそうした影響を受けながらも自らの準文明を築き上げてきた。

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