第三部 準文明博物館
ここからそれぞれ個別に準文明を見ていくことになるが、比較的簡単なものから複雑なものへと廻っていこうと思う。と同時に南半球から北半球へと見ていくことにもなる。モラルシステムである四文明(ヨーロッパ文明、イスラム文明、インド文明、中国文明)がいずれも北半球に集中して存在している状況に対して、これらに対するバランサーとして準文明群を位置づけてみたらどうなるだろうかということも併せて考えてみたいテーマである。それは後ほど出てくるが、南半球から北半球を眺めてみると、また違った世界が見えてくることだろう。この点にも注目したい。
第一展示室 植民型準文明
【オセアニア型(オーストラリア、ニュージーランド)】
ヨーロッパ諸国の中でオーストラリア、ニュージーランドを初めに発見したのはオランダだといわれている。イギリスによる領有はキャプテン・クックの領有宣言(1770年)に始まり、それはオーストラリア大陸に対するフランスの介入を排除するためのものであって、イギリスは初めから積極的にオーストラリアを開拓しようとしたわけではなかった。ニュージーランド島の方がイギリス人の居住には適していたし、マオリ人(ニュージーランド原住民)は文化的な原住民であった。
そういうわけでイギリスは、オーストラリアでは今のシドニーあたりで、軍人による指揮の下、イギリス本国の囚人を入植させた。アメリカのプリマス植民地の場合とは異なっていたわけだ。どこか日本の北海道の屯田兵と似ていたが、この軍人たちが本国からの物資やラム酒の専売を通して、あるいは囚人を使った開拓を通して、しだいに財を成し、こうした中から大牧羊業者として成功する者も出てきた。
しかし無法はびこる兵団であったため、イギリス本国から厳格な総督マックオーリおよび交代の兵団が要員として送り込まれることとなった。マックオーリ総督はシドニーの西にある「ブルーマウンテン」を越える探検を行い、内陸部の広大な牧草地帯を発見した。こうしてオーストラリアの本格的な開拓時代が始まった。
開拓の方法については、自ら入植する者もいれば、事業を行うため入植を募る者もいた。西オーストラリアではイギリス首相をやったローバート・ピールの親戚トマス・ピールによって開拓事業が進められたが定着せず、南オーストラリアではウェークフィールドという経済理論家により事業が進められたがこれも開拓にはつながらず、土地売買をめぐる投機的状況に留まっていた。西オーストラリア、南オーストラリア方面の開拓はあまり進まなかった。事業の失敗に対する総督グレーの努力(オーストラリア現地における緊縮財政)によって、ようやくイギリス本国から救済が得られることでどうにか立ち直る状況であった。ちなみにこのウェークフィールドはニュージーランド開拓にも関係し、原住民であるマオリとの対立を引き起こした。
1850年代にはヴィクトリア州等でゴールドラッシュが始まった。また19世紀半ばにおけるイギリス本国での政治運動(チャーチスト運動、アイルランド独立運動)は、政治活動家のオーストラリアへの流入をもたらし、その流刑地としての役割を見直す動きも強まってきた。こうした政治活動家の流入はオーストラリアの民主化をイギリス本国以上に活発化させる結果ともなった。普通選挙の成立※は本国イギリスよりも早く、労働運動の成果が出たのも本国よりも早かった。
※普通選挙の成立 1856年 南オーストラリア州、1857年 ヴィクトリア州、1858年 ニューサウスウェールズ州で成立。
経済は南のヴィクトリア州において軽工業が発展し保護貿易が主張されたのに対し、北のニューサウスウェールズ州では従来からの羊毛や穀物の自由貿易が主張された。産業の発展に伴い、移民(特に中国人)が増えたが、先の労働運動の影響もあり、白豪主義が高まった。
1901年にはオーストラリア連邦が成立、その後、二度の世界大戦を経て国家意識は高まっていった。大戦時、オーストラリアとニュージーランドはかなりの人数をイギリス本国のために派遣したが、第一次世界大戦ではドイツ、第二次世界大戦では日本に対する国防という意味もあったことだろう。戦後、食料や鉱物資源の輸出等で経済的に発展したが、労働力必要のため移民も増えて、白豪主義から多文化主義※へと転換していった。
※多文化主義 オーストラリアは労働力として、また経済の発展のため、多文化主義を許容せざるをえない状況があったが、積極的に認めてきたわけではない。選挙制度の先進性も当初、白人に限定したものであり、先住民族や有色人種の排斥と表裏をなすものであった。南アフリカや南米同様、多文化主義と人種主義のバランスの状態は国の経済状況に大きく依存していたといえるかもしれない。多文化主義を許容できる経済状況にあることが必要であった。
ニュージーランドは農業や酪農に適しており、原住民マオリは文化が高くもあり、入植者はマオリと共存しながら、「自由植民地」として国造りを進めてきた。オーストラリアと似たような経緯もあったが、根本的な違いは、ニュージーランドは流刑地ではなく、また人種意識が先鋭化することなく、緩やかに発展してきたということだろう。
南半球の興味深いところは、オセアニア、南米、南アフリカ、紆余曲折を経ながらも人種主義から多文化主義へ移行してきたところである。それは労働力不足からきていたのだが、それぞれ移民が何世代かけて定着していくのとあわせて多文化主義へと移行してきた。しかしそれでも人種主義が火を噴くことがある。またこれらの地域の経済が長く一次産品に立脚していたところも共通していたところかもしれない。そうした中でオーストラリア、ニュージーランドはさほどの混乱に見舞われることがなかったのは、島国で孤立していたため、北半球の騒乱に巻き込まれることも少なく、人口も過小気味であり、資源、食料があるため、安定的に発展することができたからであろう。
もっとも忠実なイギリス連邦(コモンウエルス)構成員としてオーストラリアとニュージーランドはイギリス本国に尽くしてきたが、それは本国に経済的、軍事的に依存していたからであった。第二次大戦後、それはイギリスからアメリカに変わったかもしれないが、日本のようにアメリカ一国に依存している状況とも異なっている。
植民型準文明の一例として、オーストラリア、ニュージーランドを見てきたが、原住民やイギリス人以外の移民が比較的少なく、勢力が弱かった事例といえる。イギリス本国以上に「先進的側面」があったということも特徴として忘れてはいけない点であろう。しかしその先進性も人種主義と背中合わせのものであったことも忘れてはならないことである。
次に見ていく南米はどうだろう。
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