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JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(5)

今回は、前回の「闇夜に蠢くもの(4)」で紹介したM氏の証言について、検証を加えたいと思います。読者の皆様においては、証言の内容が内容だけに、恐ろしい想像は避けられないとは思いますが、ここは何とか冷静になって、事実を見つめていただきたくお願い申し上げます。

なお、事故から24年経ってなぜ今頃こんな証言が飛び出してきたのかについては、事故後にM氏が長期に渡って海外赴任していたこと、最近まで大病を患っていたことなど、公の場で証言を行える状況になかったことを、本人に代わりお伝えしておきます。

■墜落現場は早期に特定されていた

M氏の証言からはっきりわかること、その一つは墜落現場がかなり早い段階で特定されていたことでしょう。墜落地点の同定については、M氏からCB無線網が利用可能であったとの指摘がありましたが、それ以前に、本人がそうしたように電話で周辺町村に確認するという、最もシンプルな方法で墜落地点をかなり小範囲に絞ることができたのです。まさか、互いに連絡を取り合っている現地の警察や役所がそんなことに気がつかなかったとは言い訳できないでしょう。

もっと直接的な証拠として、12日の21時頃の上空の航空機(戦闘機およびヘリコプター)の動きから、自衛隊も墜落地点を正確に把握していたのは明らかです。その音を頼りに現地に乗り込んだM氏の行動そのものが、その事実を正確に物語っています。また、白バイ隊の動きからは、警察へ墜落地点の情報が既に伝わっていた疑いが極めて濃厚と判断されます。

そして、「自衛隊に救助活動の主導権を渡した」とされるアントヌッチ証言も、この点では見事に裏付けられたように見えます。

■それは本当に自衛隊だったのか?

M氏の証言、および上記までの説明で、これまで私は、無条件に闇夜に飛行する航空機や現場で活動する人々を「自衛隊」と決めつけて話を進めてきました。しかし、何を以ってそれが「自衛隊」だと特定できるのでしょうか?それを説明する一つの要素が、アントヌッチ証言です。アントヌッチ氏が上官の命令で自衛隊に道を譲ったという言説以外には、彼らが自衛隊だと決め付ける理由はありません。

「M氏も自衛隊と認めたのだから、『自衛隊』なんじゃないのか?」と反論が聞こえてきそうですが、それについては、よく考えてみてください。例えば自衛隊の制服を着ている人物をあなたは無条件に自衛隊員と認めるでしょうか?確かに普通はそう思うでしょう、しかしその人物の所属を聞き出して部隊に確認しない限り、当人が自衛隊員だと断定する理由は何一つありません。

角田四郎氏の著書「疑惑-JAL123便墜落事故」の中にも、公式記録上は事故処理に参加していない「神奈川県警」の詰所が存在したり、しかもその詰所の中の備品に「○○師団」等々、警察の所属名とは縁もゆかりもない記名の物品があったなど、公務関係者の偽装を疑う記述がありました。ですから、M氏が見たという「自衛隊」という人々についても疑いを持って検証する必要があります。

■自衛隊の装備品ではない「アーミーナイフ」

M氏の証言について、国際軍事評論家のB氏に特に「自衛隊」員の装備について伺ったところ、次のような回答を頂きました。

・大型アーミーナイフは当時の自衛隊の装備品ではない。単純な武器のようでいて
 非常に高価なものなので、当時はまだ正式採用されていなかったはずだ。
・暗視スコープについても、当時の自衛隊レンジャー部隊に少量あったかないか
 だったはずなので、100人分も用意できたとは考えにくい。
・どちらも在日米軍の装備としてなら可能性は高い

つまり、装備品をみる限り、「自衛隊」である可能性は少なく在日米軍の疑いがあるとの見解です。しかし、証言の中で、M氏が日本語で違和感なく活動中の人物と会話している場面もあるので、おそらく相手も日本人の外見をして、流暢に(普通に)日本語を話していたと考えられます。その点をB氏にさらに尋ねたところ

・公にはされていないが、在日米軍には在日朝鮮人を集めた部隊が存在する
・通常は基地のガードなどを担当するが、優秀な人物を集めて急遽200人位の部隊を
 編成するなど造作もないことだ
・日本語もできるし、外見は日本人と区別がつかない。逆にそれが狙い目である
・ガード任務において白人が日本人を撃てば国際問題だし、日本人によるガードでは
 相手が日本人の時に発砲できない可能性がある。そこで、在日の彼らが上手く利用
 される。このような処置は駐留する国の事情に合わせ当然のように行われている
・在韓米軍内にも韓国籍だけでなく在日朝鮮人籍の人員が採用されており、彼らは
 朝鮮半島の緊張の中で実戦を経験している戦闘プロ集団だ

と、外見からは日本人と全く区別のつかない、米軍所属の朝鮮人部隊が投入された可能性について強く指摘を受けました(*1)。つまり自衛隊の偽装をした米軍兵士が事故現場に投入された可能性があるということです。

*1 本論では在日韓国・朝鮮人社会に属する人々を非難・中傷する意図は一切ありません。彼らの中には私の良き友人もいます。しかし、世の中には痛々しいまでの現実があることも事実です。この点をどうか冷静にご理解ください。いずれは、このような人の区別を口にしなくてよい世界が訪れることを私自身が強く望んでいます。

■呻き声はなぜ消えたのか?

証言に「アーミーナイフ」についての言及があったせいか、ネット上では早速、生存者がアーミーナイフで刺殺されたのだと断定している書き込みが見られます。何を隠そう、証言を最初に聞いたとき、私も同じ想像をしました。しかし、ナイフで致命傷を与えたとしたら、その傷跡は鮮明に残るはずで、飯塚訓氏の「墜落遺体」を読めばわかるように、群馬県藤岡市でとられた厳重かつ多数の医療関係者が関る検死体制の下では、医師の目に留まらないはずがありません。切り口を焼き付けたりするなど、傷跡を目立たないように処置する方法もあったでしょうが、M氏が滞在していた1時間程度の短い時間で、4~50人もの生存者に対してそこまでやれたとは到底考えられません。

M氏が目撃したのはプロの軍人です。ナイフを用いなくとも、人を殺害する方法はいくらでもあったはずです。こんなことを考えるのは本当に不愉快なのですが、1990年代、長野県の松本市、東京の都心で発生したあのテロ事件を思い出してください。小さな布に沁み込ませ、生存者の口元に当てるだけで絶命を誘う薬液など、この人たちとっては当たり前の道具であったはずです。藤岡市での検死体制も、一人一人に化学的分析を施している余裕はなかったようですし、そのような事態を想定すらしていなかったでしょう。

M氏は指先を失った男性について印象深く語っておられましたが、後から聞かされたとはいえ、絶対に助かると思っていた人がその時この世から失われてしまったことに大きなショックを受けていたようでした。M氏ならずとも、この証言を聞かされる我々の全てが、おそらく大きな衝撃を覚えたに違いありません。その手法は定かではありませんが、生存者が絶命に至った何かがそこでは起きていた、そのこと自体は間違いのない事実であります。

なお、仮に何らかの殺害行為がこの時行われたとしたならば、その実行者が多くの搭乗者と同じ日本国籍を持つ自衛隊員であったとは認めにくい話です。それは自衛隊員の良心に期待しての推測ではなく、作戦を指示する立場として、同民族人に対して殺害行為を命令するリスクは、隊員の心変わりによる叛乱など、あまりに高いからです(*2)。その意味でも外国人部隊の登用は可能性の高い推測と思われます。

*2 これは自衛隊機が日航機を撃墜したとする「自衛隊撃墜説」にも当てはまるロジックです

■自衛隊も無関係ではない

M氏が現場に到着して約1時間後、次の部隊が現れます。M氏は彼らの履物に注目しています。最初に目撃した「隊員」が急峻な山岳地を見据えた短靴であったのに、その時から、山で不便なブーツの着用になっています。また、この時刻近辺からは自衛隊が公式に救助に入ったことになっており、自衛隊が自分たちを「自衛隊」と名乗っても全く問題のないタイミングです。これだけでは、必ずしも断定できませんが、大きな装備の違い、公式発表のできるタイミングであることを考え合わせれば、2次部隊が本物の「自衛隊」であった可能性は高いでしょう。

そこからさらに類推すると、M氏が最初に見た1次部隊と2次部隊の間で現場の引継ぎが行われたのは間違いありません。だとすれば、両者の間で緊密な連携が取れていなければならないことになります。「疑惑-JAL123便墜落事故」の中には、この後に入った公務関係者の偽装を疑う記述もあるのですが、仮に2次部隊、あるいはそれ以降の投入部隊が偽装集団であったとしても、それを防衛庁が「自衛隊」であると認めていたのであれば、やはり「最初の集団」と「自衛隊(防衛庁)」の間に何かの「示し合わせ」があったことを否定するものではありません。

簡潔に述べましょう。この救出劇は、米軍在日朝鮮人部隊と自衛隊による共同行為であった可能性が高いと考えられるのです

■再びアントヌッチ証言を問う

「自衛隊に救助の道を譲った」とするアントヌッチ証言。そして「自衛隊に偽装」した米軍外国人部隊(ただし推定)。この両者に共通するものは、仮に疑惑の目が救助の初動体制に向けられたり、M氏のような目撃者が現れたとしても、その矛先が自衛隊(当時の防衛庁)もしくは日本国政府に向くよう、つまり何か問題が起きても国内問題の範疇として処理されるよう巧妙に計算された仕掛けと読み解くことが可能です。

また、「自衛隊撃墜説を斬る(1)」で取り上げた、自衛隊の対空ミサイルが原因とするマスコミへの匿名電話と考え合わせると(この情報の間違いは既に指摘済み)、やはり、疑惑の拡大範囲を最悪でも国内問題に留め、在日米軍への波及を抑え込もうする、関係者の意図が見え隠れします。

以上、断定するのはまだ早いかもしれませんが、少なくとも在日米軍が関与し、情報工作を行っている可能性を頭の片隅に置きつつ、事実を検証していく必要がありそうです。

■今なお残る軍夫制度

偽装自衛隊員に関連して、「軍夫(ぐんぷ)」が関与した可能性についても触れておきます。

軍夫とは、辞書によると「軍隊に所属して雑役に従う人夫」とありますが、この軍夫の存在は先の世界大戦の敗戦とともに、日本では死語になったと思われるかもしれません。しかし、B氏によると、戦後から今に至るまで、軍夫と同じ役割を担う組織が存在し続けているとのことです。彼らは、多くの死体が出る事故現場、放射能など有害物質の汚染が危惧される現場での危険作業など、いわゆる重度の汚れ仕事を公務員に代わって行う組織なのです。

公式の軍夫制度がない以上、それに取って代わる組織は、・在日・土建関係者(現場職)など、どちらかというと日本社会で被差別的な扱いをうける人々で、なおかつ、国の重要機密に関る可能性があることから、秘密を守れる組織、別の言い方をすれば統率者の下、組織として統制することが可能な一団であることが求められます(*3)。

要するに、角田氏が接触した謎の神奈川県警機動隊員、謎の日航技術者、ひいては、現場で救助活動を行っていた自衛隊員と思わしき人々の中に、このような軍夫が紛れ込んでいた可能性があるということです。この説で問題になるのは、彼らがいったい何の目的で、そして誰の指揮下で、出動を要請されたのかという点でしょう。これについては、追って論証していく予定です。

*3 改めてお断りしますが、差別的な意味で彼らを名指しする意図は全くありません。このような差別的関係を生むのは、彼らの問題ではなく、それを作り出す日本社会そのもの、私たち一般の日本人が責を負うべき問題であると私は考えます。

■回収物は何だったのか?

M氏の証言で次に重要なのは、謎の部隊が回収していた物、それも人命よりも優先される物とは何か?という点になります。それは、マスコミ、日本国民、そして壮絶な機体の破壊から無事生き延びることができた生存者にすら絶対見られてはいけない物であるはずです。ここでは、この証言部分が、次回からスタートする「そしてミサイルは発射された」での論証を裏付ける重要な資料であるとだけ、お伝えしておきましょう。


ET IN LEGE VESTRA SCRIPTUM EST QUIA DUORUM HOMINUM TESTIMONIUM VERUM EST

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JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(4)

■事故現場を訪れた最初の民間人、M氏の証言

それでは、お約束とおり、1985年の8月12日から翌日の8月13日にかけて、JAL123便の事故現場となった御巣鷹の尾根に向かった、M氏の証言をご紹介します。なお、この証言は、本年6月、当ブログ管理者が講師を務めた小グループのセミナーにM氏をお招きし、その席上で証言いただいたものを筆録・編集したものです。発言主旨に誤りはないと思いますが、予めお断りしておきます。

-----------------------------(ここから)-------------------------------
司会:それでは、Mさんよろしくお願いします。Mさんは事故当夜、現場に向かわれたそうですが、まず、そのいきさつを教えてください。


M氏[1]:私の実家は、事故現場から見て西側、長野県の方にあります。当時は大学を卒業して社会人になったばかりで、事故当日はお盆ということもあり、たまたま実家に帰省していました。

事故の速報を知ったのが、12日夕方の7時過ぎ頃だったと思います。その時は墜落現場は(長野県の)北相木村付近という報道でした。そこで、北相木村やもっと南に位置する川上村に住む知り合いに電話を掛けて様子を尋ねたところ、どちらも墜落は確認できてないとのことなので、残るは南相木村の山間部しかないと思い、そちらに向かいました。たまたま高校時代の友人2名と一緒だったので、事故現場に行ってみようということになりました。まだ、若かったですから、その時はただ、何としても現場に1番乗りしてやるぞ、インタビューされてテレビに映ってやるぞ、ぐらいの本当に軽い気持ちしかありませんでした。

オフロードバイクにまたがり、友人2人(それぞれオフロードとオンロードバイクを使用)と共に南相木村に向けて出発し、おそらく21時頃までには南相木村からの林道に入っていたと思います。ただし、オンロードバイクの友人は途中でこの行程から抜け、林道から先を進んだのは、オフロードにのったボクたち2人だけです。

司会:その時刻はまだ、墜落地点は判明してませんでしたよね(公式発表は翌朝5時以降)。そこからどこに進めばよいか、どう判断したのですか?


M氏[2]:そんなの訳ないですよ。上空で戦闘機が、それもおそらく2機がぐるぐる旋回している音がしてましたから、墜落現場はその(旋回)音の中心付近だなとすぐに分かりました。そこで、バイクで可能な限り近くの林道を進んで、そこから先は徒歩で山に入ることにしました。

司会:ええっ?じゃぁもうその時点で墜落地点はわかっていたと・・・

M氏[3]:はい。当然、警察も分かっていたはずですよ。だってボクたちが南相木村へ向かってるその後ろから、警察の白バイもついてきましたから。でも、普通のバイクなので切返しの多い山道に難渋していて、オフロードに乗ったボクたちは簡単に振り切っちゃいましたけど(笑)。

林道の終点から山に入ってからは、途中、山の頂きへ登る度に、ヘリの音がする方向を探して、墜落地点を確認しました。ヘリは同じところを一晩中飛んでいたので、墜落地点は当然分かっているものと思いました。

司会:すると、林道から先は、徒歩で夜の山に分け入ったのですか。危険だと思わなかったのですか?

M氏[4]:あの辺の山の持ち主(の息子)とか知ってますし、一緒に山に入って遊んでましたから、どんなところかは大体わかっていました。松の木と岩が多い所なんですよ。もちろん、急峻で険しい所だとも知ってますから、この先へ進むのは中々たいへんだなと思いましたよ。

とにかく、墜落現場に向かってまっすぐ進むことしか考えていませんから、きつい傾斜や時にはオーバーハングを超えて、山道なんか関係なく、強引にいくつも尾根を跨いで行きました。ですから、直線距離でわずか7,8キロの行程なのに、山に入ってから現場に着くまで6~7時間くらいかかりました。着いたのは、午前4時前後だったはずです。

司会:午前4時という時刻はどうやって確認したのですか?

M氏[5]:当時は、時計を身に付ける習慣はなかったのですか、着いた時に山の尾根付近が白み始めていたので、おそらくそれぐらいの時間だと思いました。
(管理者註:夏の山頂付近は明るくなるのが早い)

司会:そこで何を見ましたか?

M氏[6]:既に自衛隊員が7~80人、いや100人位は来ていました。それを見て、自分たちは一番乗りできなかったと思いましたね。同時に、事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのがはっきりと聴こえました。

司会:ええっ?その時に生きて声を出している人が居たのですか!!どれくらいの人が生きていたのでしょう?

M氏[7]:全部を数えた訳ではありませんが、声の響き方からすると少なくても4~50人は居たと思います。実際に、苦しそうに声をあげている人を私も間近で何人か見ています。自衛隊の人たちがいる以上、自分たちができることは、負傷者のいる場所を教え、早く救助してもらうことだと思い、呻き声のするあたりを探しては、その場所を隊員さんに伝え、早い手当を頼んでいました。

ただ、隊員さんの対応には不信感を覚えましたね。「へたに動かすと危険なので、後から来る部隊が手当することになっている」と言うだけで、何もしようとしない。手にした4~50cm 位の丸いバッグに、地面から拾った物を黙々と入れ続けている。

司会:自衛隊員は何を拾っていたのでしょう?

M氏[8]:まだ暗くてよく見えなかったので、それが何かまではわかりませんでした。ボイスレコーダーとか、何か貴重な物なんだろうと思っていました。私が覚えている隊員さんの装備は、バッグの他に、片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴はつま先の短い短靴を履いており、傾斜のきついこの山のことをよく調べて入っているなと思いました。

ちょっとひどいなと思ったのは、斜面を登り、尾根の反対側に出たら、向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしているじゃないですか、ヘリが来ているならさっさと救助しろよと思いましたね。しかも、ヘリの下では、さっき隊員さんたちが何かを入れていたバックを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていました。何度も吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグが回収されたと思います。

司会:現場にはどれくらい滞在したのですか?

M氏[9]:到着してから1時間後くらいに、自衛隊の次の部隊が続々と到着してきました。また、暗視スコープを装着していた最初の部隊も引き上げる体制に移っていたので、もうこれで大丈夫と思い、この時に下山を始めました。なお、次の部隊は、山で歩きにくいブーツ姿だったので、これでちゃんと歩けるのかな?と思いました。

セミナー参加者からの質問

Q1:4~50人居たという、呻き声の人たちはどうなってしまったのでしょう?

M氏[10]:それはボクもずっと不思議に思っていたのですが、下山を開始する朝の5時過ぎ頃には、谷の呻き声がピタリと止んでいました。


Q2:この事故の生存者は4人の女性でしたが、その他にも助かりそうな人はいませんでしたか?

M氏[11]:ボクが見た負傷者の中に、指先が1本ちぎれただけの男の人がいました。「この程度なら死ぬことはないな」と思い、救助活動(隊員への声かけ)を後回しにしたのをはっきりと覚えています。あの人がどうなったのか、ボクにも分かりません。

Q3:事故調査委員会が、当夜、墜落場所発見が困難だったと報告しています。しかし、Mさんは夜を徹して現場に到達している。この報告をどう思いますか。

M氏[12]:日頃から遭難者の多い現地周辺にはCB無線による救助網が敷かれています。無線機を持った人員を担当箇所に登らせて無線を交わせば、夜間に炎上しているような目立つものなら訳なく見つけ出せるはず。どうしてこんなに時間がかかったのか分かりません。
(管理者註:というか、本当はとっくに見つけ出していますが・・)


Q4:大型アーミーナイフは何に使われていたのでしょう?

M氏[13]:それは見ていないので分かりません。

Q5:現場で身の危険を感じたり、二人を排除するような動きはありませんでしたか?

M氏[14]:そういうことは特に感じませんでした。

Q6:機体が激しく衝突し炎上した墜落現場に木立が残っているのは不自然だとよく指摘されるのですが、実際に見てどうでしたか?

M氏[15]:言われてみたら、確かに変ですよね。林立している木の間に機体の破片や、遺体(の一部が)飛散していましたから。それに、あの辺りは針葉樹が多い山ですから、機体から火が出たらあっという間に周囲に燃え広がるはず。それにしちゃ、あまり燃えてなかったなぁ、変だなぁ。

Q7:事故調査委員会が、生存者4人の発見を奇跡的だと報告しています。しかし、Mさんは生きてきる何10人もの声を聞いている。この報告について改めて感想を聞かせてください。

M氏[16]:報告は嘘だと思います。明らかにもっと多くの方の命を救うことができたはずです。

Q8:その他、現場で見て、何か変だと思ったことを教えてください。

M氏[17]:山で遭難して遺体になると、狐や狸など、山の動物にひどく食い荒らされるのですが、現場で見た遺体には、奴らが手をつけた痕跡がまるでない、それは山を知る者としてはたいへん不思議な事です。

司会:ありがとうございました。

-----------------------------(ここまで)-------------------------------


以上、M氏の証言でした。この証言からわかることを、以下箇条書きにします。

・13日午前4時、公式発表ではまだ発見されていないはずの墜落現場に
 自衛隊員が既に100名程度来ていた
・自衛隊員は人命救助よりも何かの回収を優先していた
・4~50名の生存者の声が聴こえた
・1時間後には生存者の声が全く聴こえなくなった

私は、この証言についてはなるべく想像を逞しくしないようにしてます。たいへん恐ろしい想像をしてしまうからです。しかし、M氏の証言を詳しく検証することにより、この事故の謎を解く新たな事実が浮かび上がります。それについては次回に説明を譲りましょう。


ET QUI VIDIT TESTIMONIUM PERHIBUIT ET VERUM EST EIUS TESTIMONIUM ET ILLE SCIT QUIA VERA DICIT UT ET VOS CREDATIS

管理者

============================★お知らせ===================================
来月10月10日に、国際軍事評論家B氏と共に、JAL123便墜落事故に関するセミナー
を開催予定です。上記の証言者 M氏 についても再登場を依頼中です。

詳しくは、追ってご案内申し上げます。
=========================================================================
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JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(3)

■アントヌッチ証言の背景

前回掲載した「アントヌッチ証言(闇夜に蠢くもの(2))」について検証します。まず検証に当たって心構えとして、この証言が掲載されたメディアはの特性は何かをよく理解しておくことです。スターズ・アンド・ストライプ紙は事実上、世界中に展開する米軍の機関紙・プロパガンダ紙であることを理解しておかなければなりません。ですから基本的に米軍の存在を否定したりするような記事を掲載するはずがありません。もちろん、全体の体制に影響がない範囲においての批評・批判は許されているでしょう。何といっても自由の国の新聞ですから。

次に、証言者のアントヌッチ氏がどのような立場の軍人であったかにも注意が必要です。証言[3]および「御巣鷹の謎を追う」によると、当時は中尉(退役時は大尉)で輸送機の航空機関士だったとのことです。アントヌッチ氏には大変失礼ですが、階級は中尉という下級仕官、任務は米空軍の中でも地位が低いとされる輸送部隊に所属しており、米軍人社会の中では、どちらかといえば取るに足らない人物として扱われる立場です。そのような下っ端が何を言っても、米軍全体に何ら影響がない、「何か勘違いしているのだろう」と片付けられても仕方がない立場の人なのです。これは、証言の掲載によって、米軍にとって不利な批判が内外から生じても、逃げ切れるだけの保険を初めからかけていたと読むことができます。


■横田管制レーダーは何を捉えたのか?

証言[7]でアントヌッチ氏は「管制では123便がレーダーから消えた場所をよく分かっていなかった」と語っていますが、これはアントヌッチ氏が状況をそう推測したのだと言えばそれまでの話ですが、何故か、そのよく分からない場所にC130機は進路を取り、結果的に事故現場を目視するに至ります。それも、自衛隊など他の航空機に先駆けてです。横田管制のレーダーは当時、国内最高精度を誇っていたレーダーです。千葉県にある自衛隊の峯岡山レーダーが、3.8kmの誤差で墜落地点を割り出していたのに、横田管制レーダーがよく分からなかったなどという説明では、あまりに間の抜けた回答とは言えないでしょうか?

常識的に考えれば、横田管制レーダーは当初からかなり正確な位置を掴んでおり、現場確認のためにC130輸送機を回したのだと考えられます。そして、このレーダーを共用していた自衛隊はどこまでこの情報を掴んでいたのか?証言の中からはその状況を図りかねますが、この時に情報を得ていたのならば、何か別の意図で救助を遅らせた、もしも、米軍から情報提供されていなかったのならば、米空軍の意図は何かが改めて疑われます。そして、第3の仮定として、米空軍と自衛隊が何か示し合わせて行動したという状況すらも考えられるのです。


■なぜ「海兵隊」なのか?

証言[8]で「厚木基地から、米海兵隊が救難に向かう準備をしてることを聞いた」と、海兵隊のヘリコプターが最初に救助出動の体制に入ったとの報告があります。これについては米田氏が事実誤認の訂正2で「厚木基地に海兵隊は常駐していない。米陸軍座間基地のUH-1ヘリが正しい」としていますが、どちらにせよ、これはかなりおかしな話なのです。国際軍事評論家B氏によると、「海兵隊は確かに沖縄に常駐しているが、常時10人くらいは御殿場に詰めている。それが厚木基地経由で飛んできてもおかしくない。しかし、空軍が管制し、最初に情報を得ているのだから、事故現場に最も近い、空軍管轄の横田基地から常設の救難部隊を派遣するはずだ。」と、米空軍が初めに救難活動へ向かわなかったことに疑問を呈しています。

また、これは資料を確認できていないのですが、1990年頃の「航空情報」誌に、横田基地の救難部隊の隊長の手記が掲載され、そこで、「ヘリで現場に向かい降下を開始したが、命令により引き返した」と、アントヌッチ氏の証言や米田氏の調査とは異なる証言が載っていたのを覚えています。

(図:米空軍の H-43B 救難ヘリ。古い設計だが、1985年当時、まだ横田基地の救難救助部隊で数機使われていたとの証言もある)

「航空情報」誌の記事はとりあえず不問としても(資料が確認できたらご報告します)、米空軍の救助活動に全く触れられていないのは確かに不思議です。米軍の中にも明らかに縦割りのテリトリー意識が存在し、民間人の救助が名誉ある行為と考えるなら、米空軍が海軍系列の海兵隊を差し置いて行動するのが普通の考えです。なお、情報収集活動を専門とする座間基地の米陸軍部隊が、本格的な装備を持って救難活動に向かえたかどうかは極めて疑問が残るところです。

私の推測では、アントヌッチ氏は米空軍における「何か」を知っており、次のように事実を曲げて証言したと考えられます。
1.横田救難部隊のことを海兵隊と言い換えている。
2.横田救難部隊のことは黙秘し、本当にあった海兵隊の事実を伝えている。
どちらにせよ、米空軍のことに触れてはならないということなのでしょう。しかし、全体的な証言のトーンから眺めれば、「米軍の何がしの部隊が救難に向かったが、命令により引き返した」という点は事実と認めてもよさそうです。問題なのは、「米空軍は何故救難部隊を引き返させたのか」という点に絞られます。


■自衛隊(日本側)への配慮は本当か?

「御巣鷹の謎を追う」の中で、著者の米田氏は、米軍が救難部隊を引き返させたのは「政治的判断」の可能性があると指摘しています。どんな判断かといえば
 1.救難活動で先を越されて面子にこだっていた日本側の気持ちを察した
 2.自衛隊の立場を鑑みた事情の反映
 (同書、「在日米軍の『政治判断』」p120 より)
という、何ともありがたい、米軍の優しい心遣いが背景にあると推察しているのですから、おめでたいものです。

1.については、米空軍が現地上空を管制しているのですから、先を越すのは当たり前でしょう。人命がかかっているのですから、救難機を真っ先に飛ばし救助に当たるのは、同盟国軍としては当然なのではないでしょうか?2.のように自衛隊の立場を考えてくれているなら、後で救難行為の実行者を自衛隊だと発表すればすむことなのではないでしょうか?

もう一つ、どうしても言わなければならないのは、この本の著者、米田氏の主張は、米軍を追求する段になると、不思議なことに急速にトーンダウンするのです。アントヌッチ氏の証言についても、同氏が現場上空で確認した(証言[12])という日本側の飛行機の同定について、数ページにわたり極めて精密な分析を行っているのに対し、救難部隊を引き返させた米空軍への疑惑については、わずかに上記の点を述べるに留まっています。

米田氏が並の記者なら、私も気には留めないのですが、氏が日米安保条約の廃止を唱える日本共産党の機関紙「赤旗」に所属し、また極めて明晰な頭脳を有する記者であるからこそ、この点が非常に解せないのです。氏はおそらく、党の諜報活動から在日米軍に関して私たちが知りえない多くの情報を得ていることでしょう。それなのに、私にはまるで、米田氏が疑惑の焦点を、意図的に自衛隊と日本政府に誘導しているようにしか見えないのです。これについては、ぜひ米田氏から反論をいただきたいと思っています。


■事実誤認にも意図はある?

米田氏も事実誤認としている証言[19](空自F4Eの有無)、私も数字の間違いではないかと指摘させてもらった[20](上野村42マイル)、この両方についてB氏に尋ねたところ、「輸送部隊とはいえ、在日米空軍中尉の航空機関士をやってる軍人が、日本で飛ばしている戦闘機のことを知らず、また何10マイルも距離計測を間違っていたら、商売になりませんよ」との返事をいただきました。

私も、これは偽証の可能性が高いと思っています。情報工作の常套手段として、わざと誤情報を紛れ込ます、それも、誰もが簡単に気が付くものを織り交ぜることにより、そこに注目させ、同時に情報全体の信用力を低下させるという方法があります。全体の信用力が下がるということは、事実を述べている部分ですら疑われてしまう、まともに相手にされなくなることを意味します。

アントヌッチ証言の場合、軍事にちょっと関心がある人なら誰でも知っている空自F4機の存在、関東近県にすむ人ならすぐにわかる距離感、これらをわざと間違うことによって、アントヌッチ氏および、氏の発言の信用度を貶める効果を狙っていると考えられます。これを逆手にとれば、事実もまた含まれているとも判断できます。事実が全く欠けた証言は真実味そのものが失われ、情報工作としての意味がなくなります。ですから偽情報とは常に虚実一体とならざるを得ません。

その意味で、救難部隊の引き返し命令、関係者への緘口令の発令などはおそらく事実の部分でしょう。読み手が疑う部分を敢えて残すことにより、証言はより真実味を増すことになるのです。

* S氏の指摘によると、42マイル先は埼玉の上尾(アゲオ)市、これを上尾(ウエオ)と読めば、米国人なら上野(ウエノ)と区別がつかなくなる。上尾には民間の本田飛行場があり、救難ヘリの発着場としては充分。アントヌッチ氏はここを指していたのではないかとのこと。調べる価値はありそうです。


■アントヌッチ証言、掲載の理由

事故から10年を経て、何故アントヌッチ証言なのか?この答えは、この証言その中に述べられています。証言[16][17]に、事故の生存者、落合由美さんの発言が引用されています。生存者の数ある発言の中から、この部分が引用されたのは、何としても「聞かれてしまったヘリコプターの音」を説明しなければ、ならなくなったからでしょう。アントヌッチ証言の約1年半前(1993年12月)に、角田四郎氏の著書「疑惑-JAL123便墜落事故」が発刊されました。同書の指摘により、本事故に対する(特に自衛隊に対する)疑惑の声が一段と高まってきたまさにその時に、救助に向かい、自衛隊に花を持たせた在日米軍の美談が必要となったのです。

また、アントヌッチ証言は、それまで公式発表された以外の、別の航空機が現地を飛んでいたことも示唆しています(証言[12])。それもそのはずです。当夜現地を訪れたM氏によると「戦闘機が轟音を立てて一晩中ぐるぐる旋回していた」とのことですから、住人や現場近くに集まったマスコミ関係者、公務関係者、その他大勢によって、現場上空を飛んでいた複数の航空機のエンジン音をバッチリ聴かれてしまっているのです。そんな多くの証言者が口にする疑惑の声に対しても、何かしら説明が必要となったのでしょう。

* * *

さて次回は、いよいよM氏の現場証言を掲載します。今までマスコミに出たことがない貴重な証言です。闇に包まれた御巣鷹の尾根、そこでいったいM氏は何を見たのでしょうか?予めお断りしておきますが、真実はとても残酷です・・・


ANIMAM TUAM PRO ME PONIS AMEN AMEN DICO TIBI NON CANTABIT GALLUS DONEC ME TER NEGES

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JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(2)

■アントヌッチ証言全文

日航機事故から10年、米軍人コミュニティ向けの新聞「スターズ・アンド・ストライプス」の一面に突然表れたアントヌッチ証言とは何か?この証言の全訳文を米田氏の著書「御巣鷹の謎を追う」から引用します。少し長いですが、ぜひ読んでみてください。本証言の検証は次回以降に行います。


・一部を除き漢数字はアラビア数字に置き換えてます
・カギ括弧([])内の数字は、私が付け加えた段落番号です

------------------------------(ここから)------------------------------
「スターズ・アンド・ストライプス」の証言報道 1995年8月27日
(前文)
撤退命令が出ていなければ東京近郊の山中に墜落した日航123便事故の2時間後に、米海兵隊は生存者を救出できただろう。

(経歴)
1982年から90年まで米空軍に在籍したマイケル・アントヌッチ氏。現在はカリフォルニア州サクラメント市でインサイド・カリフォルニア誌の編集を行っているサクラメント・ビー紙とマイケル・アントヌッチ氏の許可を得て再録した。

[1]
10年前の1985年8月12日に、日航123便は本州中部の山間に墜落し、520人が死亡した。単独の航空機事故としては航空史上、最悪の犠牲者を出す結果となった。日本の救助隊の現場への到達が遅れたのではないかとの論議が起こった。最初の救助隊が日航機にたどり着いたのは墜落後12時間後だった。実際、もし日本当局を困惑させまいとすることがなかったならば、最初の救助隊(米海兵隊チーム)は墜落後、2時間以内に墜落機の捜索ができていただろう。生存者は4人だった。(しかし)それ以上の多くの人が助かったかもしれない。

[2]
123便墜落事故の余波(被害拡大)について、私は独自の見方をしている。事故当時、私はそのことについて「他言無用」の命令を受けていた。しかし、大事故から10年経過した今、私があの晩 、東京から西に35マイル離れた横田基地に向かう米空軍C130のナビゲーターとして見たこと、聞いたことを、話さずにはいられない。

(図:米軍のC130輸送機)

[3]
当時、私は横田基地の空軍中尉だった。当日8月12日の午後6時30分ころ、我々は沖縄から横田に向け飛行中、大島上空にさしかかった。われわれは最初、日航123便の機長が管制塔に緊急事態を宣言したときには、さして気にもしていなかった。(なぜなら)軍では、緊急事態を宣言し、エンジンを止めて平穏無事に着陸することはよくあることだから。しかし、6時40分ころ、再度、日航機長の声を聞いた。その声は非常に動揺しており、管制とのやりとりは、航空の標準語である英語ではなく日本語だった。こんなことは、几帳面な東京管制官の通常の離陸管制では考えられないほど異常なことだった。

[4]
ずっと後日になって知ったのだが、123便は(垂直)尾翼と下部方向舵の一部をなくしており、操縦不能であって、高濱雅巳機長はスロットルレバーの調整のみで操縦し、高度を変えようとしていた。また123便は緊急降下が必要な緊急事態である急減圧が起きていた。同機は絶望的な状態だったのだ。

[5]
われわれは、周波数を横田基地に切り替え、オオクラでホールディングするよう指示された。旋回中に、横田管制が123便に横田基地への着陸を許可するのを聞いた。このときから、われわれは事態を真剣に注視するようになった。123便の緊急事態は相当に深刻で、目的地に到着できそうになかった。だから、めったにないことだが、当該乗員は米軍基地への着陸を希望したのだった。

[6]
横田管制は123便と交信しようとしていたが駄目だった。われわれにも(横田基地への)進入許可を出したが、ちょうど7時過ぎに123便がレーダーから消えた、と伝えてきた。そして123便を捜索できないかと聞いてきた。われわれは、あと2時間は飛べる燃料を持っていたので機首を北に向け、捜索に向かった。

[7]
管制では123便がレーダーから消えた場所をよく分かっていなかった。当機は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進路を取った。午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。御巣鷹山の周辺はとても起伏が多かった。地表からおよそ2000フィートまで降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始めていた時だった。山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。

[8]
当機の指揮官、ジョン・グリフィンは、墜落機残骸の上空2000フィートで旋回していた。私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。事故現場から横田までの緯度、経度、方向と距離を連絡した。墜落後、およそ20分で当局は墜落機残骸の位置をつかんでいたのだ。横田管制から、我々の現在地から約40マイルの厚木基地から、米海兵隊が救難に向かう準備をしてることを聞いた。1時間で到着できただろう。

[9]
副操縦士のゲーリー・ブレイは管制に「海兵隊に急ぐように伝えてくれ。もっとも生存者がいるかどうかは疑問だがね]といった。管制官からは「生存者はいない様子。了解」との返答があった。「ここからでは生存者がいるかどうか分からないのに、あんなこというんじゃなかった」とゲーリーは無線を外して私にそういった。当機は8時30分まで先回を続けた。そのとき、海兵隊のヘリコプターが救助に向かっているので方向を知りたがっている、といわれたので、墜落現場までの方位を教え、当機のレーダーで地上から空中までを探してみた。8時50分までに救援ヘリのライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった。

[10]
午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。位置を少し移動して二人の乗員をホイスト(ウインチで吊り下げ)で地上に降ろすつもりでいた。われわれに、司令部に連絡してくれと頼んできた。私が司令部に連絡を取った。

[11]
将校は「直ちに基地へ帰還せよ」「日本側が向かっている」といったので「司令部、海兵隊は救助続行をきぼうしている」といったが、「繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様」と命令された。私は「了解。基地に帰還する」と応答した。

[12]
ブレイは渋々そのことを海兵隊に知らせた。海兵隊も了解しており、引き上げ始めていた。われわれの到着から2時間経過した午後9時20分に、最初の日本の飛行機が現れた。管制から日本の救難機だとの知らせを受けた。日本側が現場に到着したことで、安心してその場を引き上げた。もっとも、我々の燃料もほとんど使い果たしていた。

[13]
横田基地に引き返し、着陸後直ちに司令部に報告するように指令を受けた。我々を待っていたのは、第861戦術飛行隊副司令官、ジョエル・シルズ大佐であった。グリフィン機長が経過を簡単に報告した後、大佐は「ご苦労だった。今回のことについてマスコミには一切他言無用」といった。

[14]
われわれは、緊張を強いられた17時間にも及ぶ飛行を終え、休息をとるために飛行中退のビルに向かった。そのとき、日航123便が満席に近い500人以上もの乗客を乗せていたことを日本のテレビを見て知った。起こった事故の大きさに驚き、声も出なかった。スケジューラーが翌日の午後、一週間の任務で沖縄へ出発するようにとの指令をわれわれに伝えたので、その静寂が終わった。乗務員はそのまま放置されたが、そんなことは通常ないことであった。

[15]
翌日のニュースや新聞を見て、われわれは愕然とした。ニュースは、日本の捜索隊が墜落地点を発見するのが、いかに困難をきわめたかを伝える報道で溢れていた。事実、まだ事故機残骸に到着していなかった。私はすぐに地図のところへ行って昨日の航跡を確認した。私には正確な位置を示した、という自信があった。私は海兵隊のヘリコプターに墜落地点までの飛行を無線で誘導したのだし、日本の救難機が墜落現場上空に到着して旋回しているのを確認した後に、帰還したのだから。あの事故機発見がそれほど困難をきわめるような問題が日本側にあったのだろうか?

[16]
墜落から2週間たって、タイの首都、バンコクにいたとき、私は墜落の写真が表紙になった『タイム』と『ニューズウィーク』を買った。これで4人の生存者がいたことを初めて知った。4人のうちの落合由美さんの記事を読んでゾッとさせられた。彼女は墜落後、意識があったときのことを語っている。残骸の下で動けなかったが、彼女はヘリコプターを発見し、手を振って合図したが、すぐには返答がなかった。「次第に私は眠くなった」「気がつくと男の人の話し声が聞こえ、もう朝だった」と彼女はいっている。

[17]
落合さんはまた、看護師に、数人の子どもたちの声を聞いたが闇の中でその声は次第に途絶えていった、と話している。私は打ちのめされたような気がした。海兵隊が吊り上げによる救助を許可されていたならば、さらに数人の生存者を救出できたのにと考えざるを得なかった。海兵隊のヘリコプターは、落合由美さんが見つけられるところまで接近していたのだ。

[18]
『ニューズウィーク』誌によると、日本の当局は、捜索開始命令が午後9時30分まで出されなかった、と述べている。(しかし)その時刻はわれわれが墜落地点を確認した2時間後だった。最初の日本のヘリコプターが現場にやっと到着したのは、翌日の午前4時40分だった。午前7時15分になって日本の捜索隊は、警察(自衛隊のこと)のレンジャー部隊をヘリコプターで吊り下ろすことを決断した。海兵隊のヘリコプターが同じことをやろうとして許可されなかったときから、11時間もたってのことだった。

[19]
こういう大惨事での米国の役割については、『タイム』や『ニューズウィーク』誌でも、われわれのC130や海兵隊の行動を報道することはなく、記者たちは日本の当局が公表したことを鵜呑みにしている。『ニューズウィーク』は、日本のF4戦闘機が午後7時21分に山の中の炎上地点を確認したと伝えていた。当時の日本はF4を持っていなかったし、在日米軍基地にもF4は配備されていなかったという事実を除けば、これはよくできた話である。

[20]
また『タイム』は、日本の航空自衛隊が派遣した2機の航空機が、炎上地点を確認したと伝えている。このことは、午後9時30分まで捜索命令が出されなかった、という軍(自衛隊)の前述の言明と矛盾している。夜から朝にかけて、いったい何が起こっていたのだろうか。日本の救助隊は、墜落現場から42マイル離れた上野村に対策本部を設置しつつあった。後になって、日本の緊急事態対策問題に精通しているある人から、彼らが1機ではなく2機の米軍機が自分たちよりも2時間も早く現場に到着していたことに、びっくりしていた、と聞かされた。この人物は「日本の乗員は、あなた方が行ったようにとっさに捜索を実行するなんてことは絶対できないだろう」「彼らの救助活動のやり方といえば、マニュアルなど文字になっているものでしかできないのだ。しかし、あなたたち(空軍と海兵隊)はそれを見事にやってのけた」と私に語った。
(管理者註:42マイル(約65km)は4.2マイルの誤りか?)

[21]
私が日本に戻ってきたころには、この話は立ち消えになっていた。われわれ乗員たちは、ある連絡(承諾)を受け取ったが、われわれの期待とはずいぶん、かけ離れていた。われわれは、日本の新聞に残骸の写真を売るための空軍特別調査活動の任務にあった、ということにされた。しかし、この調査は、当然のことながらあっという間に終わった。なぜならフィルムを持っているものなどだれ一人いなかったし、写真を取れるような明かりも十分なかったのだから。そのうえ、マスコミは、われわれがそこを飛んでいたことなど、誰も知らないのだから、報道されるはずもなかった。

[22]
1987年3月、私は横田基地を離れ、サクラメントのマザー空軍基地で航法教育に携わる大尉として着任したが、そのとき、空軍表彰メダルを授与された。そこにはこう書いてある
「アントヌッチ大尉とその乗務員は、日航機の捜索を決定し、直ちに捜索計画をたて、墜落現場を発見し、救助隊を現地に誘導した」
私は空軍が私たちの行動を認めてくれたことは嬉しかったが、表彰を喜ぶ気になれない。私は「まだ、生存していた人たちを救出できなかった」と付け加えたかった。

「23」
日航123便事故は、実際二つの惨事がある。第一は墜落事故の衝撃で人々が死亡したことである。第二には、遺体収容を援助した医師たちの証言に表れている。つまり、もっと早く救助隊が到着していれば、負傷者、または致命的でなかった乗客を発見できただろうということだ。ある医師の証言は私の体の心まで震え上がらせた。彼は「もし、発見がもう10時間早ければ、われわれはもっと多くの生存者を発見できたであろう」といっている
------------------------------(ここまで)------------------------------

以上の証言に加え、米田氏が指摘する、アントヌッチ氏の3つの事実誤認を列記します。

1.[19]航空自衛隊は主要基地にF4E戦闘機を配備していたというのが正しい
2.[8] 米軍厚木基地には海兵隊の救難部隊はない。米陸軍座間基地のUH1ヘリ
 が救難に向かったのが正しい
3.[5]123便が横田基地への緊急着陸を求めていたような証言になっているが、
 123便は操縦に追われ横田からの呼びかけに応じきれなかったのが正しい
 →私は米田氏の3.の指摘は間違っていると思います。理由は次回以降に
  論証する予定です。


DICIT ERGO PETRO ANCILLA OSTIARIA NUMQUID ET TU EX DISCIPULIS ES HOMINIS ISTIUS DICIT ILLE NON SUM

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新型インフルエンザ - 専門家は警告する

私の知り合いに血液診断の研究者がいます。重要かつ緊急な内容だと思いましたので、その方から聞いた話を以下、箇条書きにします。なお、お話だけで、証拠資料などは私も見ていません。この内容を信じる信じないは読者の判断にお任せします。気になる方はネットや専門書、お知り合いの医療関係者に尋ねてみてください。

----------------------------------------------------------------------

・新型ウィルスの分子サイズは径の長さで、普通のウィルスの10倍、体積
 サイズでいえば数百倍の巨大な分子構造をしている。

・コアの分子から長く腕が伸びていて、そこに有害な活性が起こる

・自然には存在しない構造であり、明らかに人工的に(バイオテクノロジーで)
 設計された痕跡が認められる

・開発のベースとなったのは高温多湿に耐性のあるウマウィルスと思われる。
 新型ウィルスが夏に流行る理由もそこにあるのだろう

・新型ウィルスの特徴は、人体の免疫細胞群の一部を攻撃し、栄養化することで
 あり、特性としてはエイズに似ている

・免疫細胞の増殖が盛んな若い世代が発症しやすい。報道等でわかるように
 若い世代の患者が多いのはこのためである

・このウィルスで死亡する主因はウィルスの毒性によるものでなく、前述の
 ように、免疫機能の一部を失うことによる2次的な感染症である。

・持病を抱えている人、特に糖尿病などに既に罹患している場合、ウィルス
 感染による死亡の可能性が高まる。
 → 感染による死亡者がどのような人たちか、報道を確認して欲しい

・一般の研究員でも、ウィルスについて常識的な知識があれば、顕微鏡を
 覗いた時に、これが通常のウィルスではない(人工的な)ものであることは
 すぐに気が付くはずだ。

・疫学的に感染スピードを分析すれば、これがバラ撒かれたのは明白だ

・多くの医療関係者が疑いを持ちつつ口を閉ざしているのだろう

・一般的な意味でもワクチンの効果は期待できない。むしろ有害である。

---------------------------------------------------------------------

私も以前から、人工ウィルスの使用を疑っています。幸いにも、自然の浄化作用と呼んでよいのでしょうか、人工ウィルスは自然界で変異を繰り返すうちに毒性を落としていくようです。AIDS、SARS、鳥インフルエンザなど、これまで人工ウィルスではないかと疑われていたものが、多くの罹患者を生み出したとはいえ、国家レベルまでの大渦に発展しなかったのは不幸中の幸いです。

しかし、他の情報によると、今回のインフルエンザ渦はむしろワクチンの方に仕込みがあり、これを摂取することで脳機能の異常、重大な精神疾患をもたらす可能性の方が高いとのことです。いったい何が目的なのでしょうか?一部で言われているように、(有色人種を中心とした)人口の削減、医薬販売の莫大な利益を狙ったものなのでしょうか?
*特効薬といわれる、タミフル、リレンザも精神に影響があるといわれています。
 突然窓から飛び降りた中学生、母親の腕を切り落として鉢植えにした高校生、
 あの忌まわしい事件を思い出してください。

現在はナノチップ(超微小サイズのIC発振器)なども開発されており、これをワクチンに混入して、人体に入れることも可能です。ナノチップは人体では内耳の毛細血管内に留まると言われており、外からの命令を無線で受けたチップが、電磁波などを発振し、空耳が聞こえたような効果を与えることが可能なようです。それを「神の声」だと思い込んでしまった人がどのような行動をとるか、考えただけでもぞっとします。たとえそこまでの機能はなくとも、ICタグで管理される品物のように、人間が行動監視されるのは必至でしょう。

なお、ワクチンはどんなものでもほとんど効きません。ワクチンが伝染病を減らしたと一般的には言われてますが、伝染病が激減した時期は、手洗い、上水の整備など、衛生観念が世界的に普及した時期に当たり、ワクチンの普及に先行しています(どの書籍か失念しましたが、統計値を見たことがあります)。ワクチンが効くものだとしても、絶えず変化し続けるウィルスの型を予測することは不可能に近く、単に異物を体内に入れるだけで終わってしまうことがほとんどです。逆にその異物が人体に対し有害な場合があります。学校等の予防接種で児童が死亡した例があることはご存知でしょう。程度は軽いですが、40代以上の歯が黄色く黄ばんでいるは、学校時代の予防接種が原因なのです(歯医者から聞きました)。そのせいなのか、現在では学校でのワクチン摂取を強制していません。

新型ウィルスにかかったら、普通の風邪を治すように対処することが一番です。その際、解熱はいけません。発熱はウィルスを死滅させる大切な人体の防御反応ですから、熱を出るにまかせるのが肝要です。ただし、脳細胞は熱に弱いので、頭部だけは氷枕などで冷やし続けてください(私は医師でないので、この情報の正誤判断はご自身でお願いします)。

しかし、何より肝心なのは、日頃から健康状態を良好に保っていること尽きます。ストレス、睡眠不足、偏食など、健康に有害な習慣は今から是正しておきましょう。自分に言い聞かせるつもりで、ここにお伝えします。

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