一気に冬へ&今日の母は不調

2023年11月24日 21時33分00秒 | 介護

 今朝は窓を開けて、お散歩に出かけました。

朝はさほど寒くなく風もありませんでしたが、お昼前くらいから強風。

晴れていましたので、サンルームはぽかぽかでしたが、夕方になると気温が下がってきました。

これからの2日間は真冬並みの寒さだそうです。

 

 

 

 

 朝、まだ暗かったので、ほとんどの写真は撮れませんでしたので、あとで出直しました。

今年の 待降節(アドベント Advent)は12月3日日曜日から始まり、12月24日日曜日に終わります。

馬小屋が段々と出来上がってきました。

 

 

私もそろそろ準備しなくちゃです。

ママ友ガーデンのモミジも真っ赤でした。

こちらは我が家のモミジ。

 

 

 

 

 今朝の果物

今日は11時に看護師さんが来て下さいましたので、その間に2つに用事をしに出掛けさせてもらい、帰りに朝のお散歩コースを辿りました。

ママ友ガーデンのモミジ

 

今は住む人がいなくなってもう長いお宅のお庭の小菊が、毎年かわいく咲きます。

 

 

萩が又咲いていました

 

公園の紅葉

カエデやフウは葉っぱ一枚残らず剪定

 

 

 今日の母はやはり不調。

夜中に1時15分位に大きな寝言。

声を掛けると「今、何時

そして、またすぐに寝ました。

 今朝の血圧はいつもの200超えと違って、上が76

そのせいか、「欲しいけど食べられない」と言いました。

が、食べました。

その後はベッドへ。

看護師さんがいらしても絶不調。

 12時半に歯医者さんが来て下さいました。

2週間、夜以外は入れ歯を入れてなじませ、2週間後に削るそうです。

 母はパンなら食べますが、昼はご飯にしたところいまいち

そこで、パネットーネ(Panettone)を食べるか聞くと食べると言いましたので、又、パンにしました。

 16時から訪問リハ。

そして、17時半から今日はヘルパーさんが来て下さいました。

今日は一日不調です。

どうしてこんなに波があるのか。

今日はリハの方に母が「もう最期だ」と言っていました。

「もう何回も聞いたけど、昨日は元気だったと聞いたし、今も何か美味しいものが食べたいと言っているから大丈夫」

美味しいものって何か聞くと、りんごだと言いました。

りんごだけをミキサーに掛けることが出来ないので、熟柿とか牛乳を入れてジュースを作ったところ、300mlほど飲みました。

明日はりんごをクラッシュにした缶詰を買うか、りんごのコンポートを作るか、何かりんごをやわらかく美味しく食べられるように考えたいと思います。

 

 

 今日も何回かお洗濯をしましたが、最後はヘルパーさんがおむつを外したまま目を離されて、着かえたばかりのもこもこのパジャマから、下のラバーシーツまで、真っ暗になってお洗濯。

お洗濯は嫌いではないので、大丈夫~

 

 

 

 

 

 

 

★致知一日一言 【今日の言葉】2023.11.24

 

『論語』が伝えるリーダーのあり方

 

君子重からざれば則ち威あらず
━━━━━━━━━━━━━━
『論語』
○月刊『致知』2023年12月号
連載「四書五経の名言に学ぶ」【最新号】より
━━━━━━━━━━━━━━

「人の上に立って
部下の能力を発揮させるリーダーは、
重厚、重重しく堂堂として、
威厳がなければ務まらない。
威風堂堂として立派な人物になるよう、
求めているのです」(本文より)

●東洋思想研究家・田口佳史氏による
好評連載の魅力はこちらから

映画会社に勤めていた20代の頃、
とある事故により瀕死の重傷を負うも、
病床で『老子』の教えに救われ、
以来古典を愛読し続けてきた田口佳史氏。
これまでに、東洋思想とリーダーシップを
約2,000社以上の経営幹部に平易に説き明かし、
メンターとして多くの人に仰がれています。

『致知』ではそんな田口氏に、
東洋古典の中核をなす九つの経典「四書五経」より、
心に刻みたい名言を抜き出して
毎月解説いただいています。
2,000年以上の時の洗礼を経た珠玉の言葉を通じて、
人間の芯を養いたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

★バラ十字会メールマガジン(毎週金曜日配信)

 

存在の哲学-形而上学、形而上とは?


バラ十字会日本本部AMORC


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こんにちは、バラ十字会の本庄です。


━…………………━

文章を以下に転載していますが、下記のリンクをクリックして、公式ブログでお読みください。取り上げられる実習のヒントになる写真や、話題になる人物の肖像が掲載されています。

https://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M1087602&c=3304&d=ed84

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週末は強い寒気が入って、北海道と本州の日本海側が大荒れとのことです。

どうか運転など、くれぐれもお気を付けください。



このメルマガをご愛読くださっているある方から、「形而上学」(けいじじょうがく)とは何かについて書いてくださいとリクエストがありました。


実は、少々ひるみました。簡単なご説明が難しいテーマだと思ったからです。


しかし、バラ十字会からご提供させていただいている通信制の学習コースの3本柱は、神秘学、形而上学、人生哲学ですので、せっかくのこのご質問を、避けて通るわけにはいきません。

分かりやすくご説明したいと思います。



◆ 形而上学とは


・ メタフィジクス、形而上学という言葉の成立


手短に、結論から申し上げることにしましょう。(後に、もう少し詳しくご説明します。)


アリストテレスは古代ギリシャの偉大な哲学者ですが、ローマのアンドロニコスという人が、彼の残した文章を全集にまとめました。


そのとき、自然学(physica:フィジカ)の論文の後に、哲学の論文を配置しました。



そのため、それらは「自然学の後の論文」を意味する「メタフィジカ」(metaphysica)と呼ばれました。


そして明治時代に、その日本語訳として「形而上学」という言葉が選ばれました。


ですから元々は、これらの論文で扱われていた分野が形而上学にあたります。


アリストテレスが扱ったのは主に、存在そのものについての哲学、世界の創造についての哲学、心の哲学の3つでした。


そして、後の時代の哲学者がこれらを発展させていきました。



・ 形而上と形而下の違い


「形而上」という日本語、ほんとうに分かりにくいですね。


たとえば、水面という言葉があって、水面上と水面下というように使われています。


まず、不思議に思われるかも知れませんが、これとは異なり、「形而」という言葉があって、その上とか下とか言っているのではありません。形而上と形而下(けいじか)という言葉があります。



形而上という言葉は、古代中国の哲学書「易経」の一節に由来しています。


その文を現代語に直すとこうなります。「形而上(形を超えたもの)は、これを道(タオ)といい、形而下(形に支配されるもの)は、これを器という。」


ちなみに、この「器」とは自然界のことです。一方「道」(タオ)とぴったり意味が一致する現代語は、どうも見つかりません。


真実、本質、理性、道徳意識、生命、神などの意味をすべて含んでいる不思議な用語です。



いずれにせよ、世界は2つに分けて考えることができ、そのうち、形を超えたものが「形而上」にあたります。


たとえば心、観念、感情などは「形而上」に属します。


そして、形を持つもの、つまり物質が「形而下」にあたります。



無形文化財とか無形固定資産という言葉がありますが、この「無形」は「形而上」とよく似た意味です。


そして、井上哲次郎という明治時代の哲学者が、「メタフィジクス」(metaphysics)という英語の訳語を「形而上学」とすることにしました。



◆ アリストテレスの形而上学の内容


冒頭でご説明したように、古代ギリシャの哲学者アリストテレスの死後、西暦70年ごろに、ローマの都市ロードスでアンドロニコスという人が、それまではばらばらだったアリストテレスの論文や手書きの原稿を集めて、全集を作りました。


そのとき、自然学(物理学や博物学)について書かれた巻の後に、アンドロニコスは全部で14の巻を配置しました。


この14巻で扱われている内容がギリシャ語で「自然学(physika)の後(meta)に置かれた巻」と呼ばれるようになり、このことが元になって「メタフィジカ」(metaphysika)というラテン語、「メタフィジクス」という英語ができました。



これらの巻に書かれている内容は、伝統的に3つに分類することができるとされています。


存在そのものについての哲学、世界の創造についての哲学、心の哲学です。



・ 純粋形而上学は存在の根本原理を扱う


そして、この3つの中でも、現在、純粋形而上学と呼ばれる狭い意味の形而上学では、存在の根本原理が扱われます。


以上、長くなりましたが、ここまでの結論を申し上げると、純粋な意味での形而上学とは、「存在の根本原理」を追究する哲学だということになります。



何だか分かりにくいですね。一体、存在とは何でしょうか。根本原理とは何でしょうか。


タマネギの皮をむいているようで、どこまで行っても疑問が出てくるのでまどろっこしいのですが、もう少しおつきあいください。



・ 存在するすべてのもの


まず、存在とは「存在するすべてのもの」のことだとされています


物だけでなく生物も、もちろん人も、その心も、人が作り出した観念も、もし存在するとすれば神も、すべてが含まれた全体です。



バラ十字会には次のような言葉が伝えられています。


「あらゆるものからなる〈一なるもの〉には、いかなる部分も存在しない。言いかえれば、〈一なるもの〉がひとつと数えられることはない。」


現代風に考えると、全宇宙のようなものに思えますが、さらに「形而上」、つまり形のない心や観念の世界が含まれます。


仏教では「諸法」という言葉がこれにあたるようです。



・ 人はどのように生きるのが正しいのか


そして、純粋形而上学では、「存在するすべてのもの」の根本原理が扱われるのですが、これは、何というか、思索だけによって作り出された理論というよりは、体験に密接に結びついている営みだと考えていただいた方が良いように思います。


形而上学の祖であるアリストテレスは、ソクラテスの孫弟子でした


ソクラテスは「人はどのように生きるのが正しいのか」を追究するのが、他の何よりも大切だと考えた哲学者であり、この考えが形而上学にも受け継がれているように思われます。



・ 科学は「どのようにして」を追究するのに対して、形而上学は「なぜ」を追究する


話を戻しますが、形而上学が追究する「存在の根本原理」とは何でしょうか。


たとえば、太陽という星がどのようにできたかを例にご説明します


物理学者は、宇宙にただよっていたガスが重力によって集まって温度と圧力が上がり、太陽が生じたと説明します。


そしてその詳細を、数式を使って表わします。



これに対して、形而上学でいう根本原理とは、太陽が存在して、周囲との関係で現在の働きをしている目的、もしくは理由のことです


つまり、科学は「どのようにして」(how)を追究するのに対して、形而上学は「なぜ」(why)を追究すると言い換えることができます。


ですからたとえば、もし人生の意味を知りたいと考えた場合、科学ではなくて形而上学の中に答えを探した方が、見つかる可能性が高いのです。



科学も形而上学も真実を追い求めていますが、真実の追究方法、判定基準は、この2つでは異なっています。


下記の文章で詳しくご説明しましたが、だからといって、形而上学が非科学的だというわけではなく、追究する相手が異なれば、方法も異なってくるということです。


参考記事:「非科学的、科学的とは何を意味するか? 物理学の歴史の例からわかりやすく解説」

https://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M1087603&c=3304&d=ed84



・ 真実を見抜く観照


形而上学を進めて行くうえでもっとも重要な追究方法を、アリストテレスは「観照」だと考えました。


そして、形而上学の真実の判定基準となるのは、人が正しく生きるために役に立つかどうかです。



観照は、おそらくなじみのない言葉なのではないでしょうか。


瞑想とほぼ同じ意味です。


リラックスして、あるものごとに集中して、直観的にその真実を見抜くことです。



面白いことに、アリストテレスが「存在の根本原理」について語っていることと、最初にご紹介した「道」(タオ)について老子などの古代中国の哲学者が書いていることには、そっくりの部分があります。


おそらく交流がなかった異なる古代文化で、ものごとの本質について同じことが語られているという例は、これ以外にも、数え切れないほどたくさんあります。


このことを、人間の直観には、このような真実を捉える重要な能力がある証拠だと私は考えています。

そして、この能力があらゆる人に共通だとすれば、同じ体験を誰もがすることができます。



・ 観照の実習


機会があるときに、次のことを試しに行ってみていただきたいのです。

気温が低い時期でしたら、十分暖かい服装で行ってください。



晴れた夜に野外に出てください。妨げになる明るい光から離れるようにしてください。

都市に住んでいらっしゃる方は、公園に行くか、静かで通行が少ない道路脇に止めた車の中から行うこともできます。

もちろん防犯には十分に気をつけてくださいね。

安全上適した場所が近所になければ、ご自宅の庭やベランダでも結構です。



リラックスして、何回か深呼吸をします。そして空を見上げます。

星々と月をじっと見つめてください。これらに集中して、しかもリラックスしたままでいてください。



「存在するすべてのもの」が、直観によって感じられるかを試してみてください。

それは、どのような性質のものになるでしょうか。

そこには、何か意外な“神秘”が秘められているでしょうか。



古代人、特に砂漠の荒れ地の遊牧民は、山羊の皮のテントのかたわらで、このように天空を見つめていました。

そして、人類のこの体験は、天文学だけでなく、形而上学のような哲学も育んできました。



あなたも、興味深い、ちょっと奇妙な何かを受け取られることでしょう。

もし、そうでなかったとしても、間違いなく心地よい体験になります。



筆者紹介:

バラ十字会日本本部AMORC代表 本庄 敦(筆者のプロフィールはこちら↓)

https://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M1087604&c=3304&d=ed84



追伸:もしあなたが、この記事で説明されている形而上学を深く学習することにご興味をお持ちでしたら、通信講座「人生を支配する」を一ヵ月無料で体験することができます。

下記のページからお申し込みください。

https://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M1087605&c=3304&d=ed84



今回も、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

また、お付き合いください(^^)/~


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■編集後記

神代植物公園のダリアです(その2)

https://a07.hm-f.jp/cc.php?t=M1087606&c=3304&d=ed84

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コメント (2)
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