石ころ

愛の渇きを満たすのは主


 

 テレビで「徘徊する子供たち」を見た。彼らの多くが「親はなんとも思っていない」と答えていた。自分の存在に無関心だと思っているその淋しさはどれほどだろう・・。
反抗しているように思える彼らが、テレビ局のアンケートに真面目に答えていたことに驚いた。「知ってほしい」と懸命に訴えているように見える。でも・・きっと親にも愛し方がわからないのだろう。
人は愛を持っていないから、誰かの真似をすることは出来てもどうしたらよいのか分からないのだ。親も子も愛を求めて彷徨っている。

 神は愛。愛の神に拠らずに愛の関係が完成されるわけがないのだ。主に拠らずに完全な満足があったなら、それは神の箱舟ではなく、てんでに自力のボートで航海するようなものなのだ。行き先は皆揃って死の海である。
交わりの後に渇きが残るのは主の警告である。

どんなに楽しい時も喜んで居るときも、イエスさまを真ん中にした喜びならそれはいのちを養うだろう。いのちの主を準備する責任はキリスト者にある。そのことを抜きにしてはマルタのもてなしである。人間的な愛の形によってはどれほど尽くしても愛は完成しない。

またあらゆる良い計画を準備しても、その中でイエスさまに出会わなかったら渇きが残る。すべての渇きを癒す愛は主だけが持っておられるものだから・・。
私には愛がない、私には気遣いがない、私には多くの欠けがある。しかしそのすべてを造り主は知っておられる。
解決は、主を真ん中にお迎えして必要のすべてを満たして頂くことであった。主を抜きにして完成する関係は空しいのだ。


 しかし、先日ルークさんのメッセージを聴いて、心に残っている言葉がある。
「レビヤタンは人を呪わせ関係をねじ曲げるもの。しかし我らのえじきである」
アーメン。海(世)の巨獣の頭を砕き・・、そう、イエスさまは蛇(サタン)の頭を砕かれた。

あなたは、御力をもって海を分け、海の巨獣の頭を砕かれました。
あなたは、レビヤタンの頭を打ち砕き、荒野の民のえじきとされました。
あなたは泉と谷を切り開き、絶えず流れる川をからされました。(詩編74:13~15)


その知識を得るとき目の前の問題を恐れることはない。人間関係の中に主はすでに介入してくださっているので、愚かさも不信仰も気遣いの足り無さも、問題を遙かに超える主の良きご計画に拠り頼んで安息する。
人の間に堅く主の祭壇を据えるなら、人間関係のうめきというレビヤタンを餌食として成長するようになるのだ。それが神の備えなのだ。

みことばは家族の救いを約束してくださっている。約束の主はご自身を否むことができない御真実なお方である。
主に信頼する者は、人の考えや手段にはは拠らずに約束のものを賜ることを知って居る。

ただ、人の選びの自由は神が創造の初めに定められたものであり、その結果御子は十字架に付けるほどに重大なことなのである。だからこそ、愛の在りかを知らせることは真の家族愛。
この望みを肉の家族には留まらず、未来の主に在る家族にまで広げることは主のみこころにかなうことだ。

その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。(イザヤ27:1)

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