石ころ

ダビデの鎧




 今日も猛烈に暑かったけれど、「日の暮れるのが早くなって来たね、」と妹が言っていた・・確かに。パソコンに夢中になっていると部屋が真っ暗になっていたりする。
先日の朝、鹿の絹を裂くような鳴き声を聞いた。「絹を裂く」なんて言ったって、今はどれ程の人がその音を知っているだろ。それは歯の浮くような嫌な音で・・、そう言えば鹿の方がましだった。
昨日、裏山で激しく揺れる葛の葉裏の、陽光に白くギラリと光って波打つ様に見とれていたら、葉の間にもう紫色の花が幾つも覗いていた。秋の七草。


 ダビデの鎧は仕事着でもあり寝間着でもあった。
羊飼いダビデは獅子や熊から羊を守った。その戦いによって内に働く神の力を知って居たのだ。彼にとってはゴリヤテも獅子や熊も、神の祝福を奪う同じ敵である。

彼は主が準備してくださった完璧な鎧によって、すべての敵から守られていた。
主はひとり一人に相応しく戦いの武具、オーダーメードの鎧を準備して着せてくださって居る。それによって寝ていても起きいても、戦いの中でも寛いでいるときも守られているのだ。
意識しないほど身に添って重荷でも苦痛でもないものである。それは、神がねたむほどに私たちを知り尽くす聖霊によるものだから・・。

 王の鎧は肉の力による鎧である。人力の備えであって重くて担いきれない要求であり、自由に歩くことさえ出来ない縛りである。着慣れていないとかではなく、すぐに脱ぎたくなるほど苦しいものなのである。
主に在る者が肉の備えによって世のゴリヤテに勝つことはない。霊に肉を被せては身動きができなくなる。鉄だけに金縛り・・、ダビデはその鎧を着たとたんそれを知って脱いだのだ。

 人は、キリストを信じたときに受けた聖霊によって、すでに武具は身に付いている。
ただ、それは目に見えないものなので、信仰による経験によってその完全な威力を知ることが必要なのである。
神の知恵(知る恵み)が必要であり、祝福を奪うものにしっかりと立ち向かって、主の勝利を宣言する経験が必要なのである。

そうでないとダビデの兄たちのように、敵が居ないかのように誤魔化して群れ、誤魔化す者は敵を真正面から告発する者(血肉)に敵対するという愚を犯すのである。兄たちは、ゴリヤテを罵るのではなくダビデを罵った。


悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
(エペソ6:11~13)

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