気遣わしいことが心にずっとあった。そのような時、主から「今」と知らされ祈りに導かれた。後で確認して神のタイミングには「遅れることはない。」と改めて教わった。
祈りの結果についてはまだ知らないけれど、主の命じられたことをするならそれで役割は完成だと思っている。
聖霊の促しを間違えなく聴き取ることができるのか・・それはわからない。いろいろな場合があるだろう。打てば響くように聴く時もあれば、何度も何度も語ってもらっていることもあるかもしれない。
しかし主の平安が残ることで完了した時はわかる。
少年サムエルに主は3度声を掛けられ、エリの助言を得て預言を受けることを学んだ。
人が主のすべて知ることは無い。けれども、主は人のすべてを知っておられる。塵にすぎないことをご存じで、相応しく備えて導いてくださる。その主に信頼して勇気が与えられるのだと思う。
ただ、マリヤは御声を聞くだろうけれども、マルタが聞き取ることは難しいだろう。私たちの問題はそのことにある。
御声を聴いたなら伝えなければならない。サムエルが恐れて黙ってしまっては役立たずである。恐れは神から出ていない。サムエルが自分を省みてはエリに伝えることはできない。
主の言葉を伝える預言は、語られた主に全幅の信頼を置いて従順する働きであって、預言を求めるとはそういうことだと思う。
先ほど、祈りの答えとして吉報を頂いた。主に促されて祈る時、その方を主が大事に思っておられるのだと感動する。だから、祈りによって主の祝福に参加させて頂いたことは、光栄であっていつも嬉しいのである。
そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。(Ⅰサムエル3:10)
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