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石ころ

従順


イエス様にお出会いしたら「すぐに従う」ということはとても大切なこと。父を葬ることよりも主に従うことの方が優先する。イエス様の弟子たちはそのように従って行った。それは実際すごいこと。

「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』彼らはすぐに網を捨てて従った。
そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」(マタイ4:18~22)「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、『わたしについて来なさい。』と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」(マタイ9:9)

それは彼らがイエス様がどなたかを知ったからだろう。そして、彼らが自分自身よりも家族よりもイエス様を愛したということ。それが、イエス様の弟子となる資格だったのだと思う。学歴でも、能力でもなく主を愛したことによるのだと思う。

クリスチャンが本当にイエス様がどなたであるかを知るなら、当然、イエス様がすべてに優先するはず。いつも後回しになったり、「・・が解決したら」などと言い訳をしているということは、本当にはイエス様のことがわかっていないからだろう。

「どうか私たちが主を知ることができますように。」

「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ16:24~25)

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33)

従うならその他のことは神様が責任をとってくださる。どうして主に信頼する者の必要を主が放って置かれるだろうか・・。それは家族への私の愛よりも、遙かに勝ってイエス様の方が私の家族を愛してくださっているから。

イエス様だけが十字架の恥や、痛み、苦しみ、孤独を通して私の家族を救ってくださった。私たちは十字架という愛の証拠をもう知っている。ペテロやヨハネの時代より、多くイエス様の愛を知っているのに、どうして彼らのように真っ直ぐに生きられないのだろう。

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