石ころ

素っ裸


「私は、着ぐるみどころか神様の御前でいつも素っ裸。そんな私の24時間礼拝」なんて礼拝後の交わりで話してしまったけれど、帰りの電車の中で、自分の裸を想像してちょっと気持ちの悪いことを言ったかな・・なんて反省もした。けれど、やっぱりそれが私の事実だからまあ、いいか。そんなことを考えていたらみことばを思い出した。

「私は裸なので、恐れて、隠れました。」(創世記3:10)
「神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。」(ヘブル4:13)

 イエス様の十字架による義の衣を着せられている者だけが神の御前に立つことが出来る。でも、イエス様の着せてくださった義の衣は私の目には見えない。私の目には自分の全く無防備な素っ裸しか見えない。きよい神様の義は罪人の私には、いったいどのようなものなのか想像することも出来ないから・・・。

 でも私はイエス様によって、神様の御目には義の衣で覆われていることを知っている。だから、すっかり安心して自分の醜い姿をさらけ出して憩っている。イエス様のあがないのゆえに神様は私には恐いお方ではない。慕わしくて「愛する天のお父様」と呼びかけるお方。

 何時からこのように祈るようになったのか覚えていないけれど、ある時その呼びかけがある人たちと違うことに気づいて、「天の父なる神さま」と習ってみたけれど、むしろ違和感があってやっぱりいつもの呼びかけにもっどてしまった。

 礼拝の前に司会者の方が祈られたとき、「あなたは、どこにいるのか。」「主よ。私は此処にいます。」と祈られたことも思い出してちょっと嬉しくなった。

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