イエスさまをお連れして、ヤイロは瀕死の娘の待つ家に急ぐ途中で、長血の女が割り込んできました。ヤイロはどんな気持ちだったのでしょう・・
女の打ち明け話を聞いていた時の、ジリジリとする焦燥感は察するにあまりあります。
信仰を持っていても追い詰められ、漫然と待っていることですべてを失ってしまうのではないかと怯える時があり、みことばにすがりついていても状況が一向に何も動かない時もあります。
イエスさまの「あなたの信仰があなたを直した。」という女へのお言葉の直後に、彼は娘の死を知らされています。
イエスさまの「恐れないで、ただ信じていなさい。」とヤイロにおっしゃったお言葉は、私たちにも言ってくださっているのです。
それはイエスさまへの信頼を刻んでいる時間です。後には甘い思い出に変わる、大切な信仰の経験のための時間です。
そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。(マルコ5:37)
少数の弟子と、父母と共の者だけが少女の癒しの場に居ることが許されました。
そのとき起こっている死という事実に立つ者ではなく、イエスさまのお言葉に立つ者だけがその場に居ることを許されたのです。
信仰がないところではイエスさまはわざを行う事ができません。信じない者は何を見ても信仰に結びつくことがないからです。信じないための理屈はいくらでもサタンが準備をしてくれます。
イエスさまには遅すぎるということはありません。どのような場合でも手遅れということはないのです。主には信仰によって時を遡ることさえ出来ます。
「死んだ」という事実は「眠っているだけ」に変えられるお方なのです。これ以上のことは他にありません。
追い詰められて行き場を失った者がすがりついても「信仰があなたを直した」と弁護して下さるイエスさま。
しかし、ご自分のためには一言も弁護されませんでした。
「恐れないで、ただ、信じていなさい。」と、今日も私たちの暮らしの中に御声が聞こえます。
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