息子が休みで居ると色々と助けてくれるが、時には激しい言い争いもする。反論されて「言葉を教え過ぎた!」と腹をたてることもある。まあ、私が教えたのは基本的な言葉に過ぎず、ほとんどは読書から自然に身につけていたのだけれど・・。
先日も「お母さんのそういう考えは、思考停止しているんだよ。社会ではそれでは通らないよ」と言われて頭に来た。
でも、「思考停止」とは言いも言ったりずばり当たっていた。ただ、思考停止してしまっているのではなく、思考停止を選び取っているのだ。
善悪の知識の木の実を食したことによって人は賢くなった。思考を巡らして明日のために計算し、何をすれば正しいと評価され、恥をかかずに済むかと考えるようになった。
また、自分の命のことを心配するようになった。
サタンの使いの蛇に「死にません」と言われてから死を恐れるようになったのは、皮肉なことである。今もそのような言葉が地に溢れている。
明日は明るい日である。
「明日の事は明日が心配します。」このみことばに「アーメン」と言うなら、限りある今日の心配は主に拠って時々刻々と解決されて行くことを経験する。
しかし、心配する明日は必ず暗く、明日を心配する者の煩いは永遠に続くのだ。明日は死ぬまで続くからである。
そんな思考は即座に停止するべきである。
人の評価はコロコロと変わる。評価する人の内にも基準が定まっていないからである。善悪を知る知識の木の実を食べ神様からその基準を奪った人類は、確かな善悪を失ってしまったからである。コロコロと変わる評価を求めて、悲しく右往左往する内に人生を終えることになる。
思考を深めるたびに汚れた頭で問題をひねくり回し、パン種の入った問題はどんどん膨らんで、何が何だかわからない混乱に陥ることになる。それは世の中を見ていればよくわかる。
解決は即座に思考を停止して造り主なる神様に降参することである。そうするなら、みことばの約束による希望が、真実な神様によって準備されていることを知る。
私の得意技は、アダム以来の汚染された脳みその活動を早く停止させることにある。
イエスさまが人を「良い事をした。正しいことをした。よく考えた。」とほめたことがあるだろうか。主がほめられたのは、神様に降参した人の追い詰められた信仰であった。確かなものは「ただ、主に居る。」ことであると私は思う。
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(マタイ11:25~26)
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ムベ
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