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石ころ

ことばなる方

言葉が恐くなることがある。でも、言葉に拠らないと何も伝わらない。言葉は剣にもなり、癒しにもなる。
言葉を失うことがある。絶句するときは我を失うとき、自分が消えて無くなってしまった時。

言葉に拘ることがある。探り求め、ぴったりな言葉を見つけ出すまで苦しむこともある。見つけ出した時の喜びはとても大きいから・・また、ぴったりを探すのだけれど・・語彙の貧しさは悲しい。普段着しかないシンデレラのよう・・。

言葉は心を語るから恐い。言葉は偽ったり、飾り立てたりもするから恐い。信仰を言葉にするとき、それは露わになり、具体的に本性が現れるから恐く思うことがある。無知も、愚かさも、弱さもさらけ出て書くことは、主に覆っていて頂かないと、まるでストリップショーを演じているような惨めさを感じてしまう。避ければ書かない言葉によっても現れる。言葉は語って人を現わし、語らないことででも現れる。

主に知らされた真実を、常に語れるかと言えばほとんど語れない。そんな場所に無言で居ることに意味はあるのかと考えた。でも、イエスさまを持っているなら、イエスさまは語られる。主と共に居るなら真のことばが現れる。人の雄弁ではない、主の存在から出ることば。それこそ、天地さえも創造することば。人の深いところに唯一届く救いのことば、それだけが私の望み。

 
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

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