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石ころ

火曜日のために (マルコの福音書4:21から)

 

また言われた。「あかりを持って来るのは枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。
隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。
聞く耳のある者は聞きなさい。」


 あかりは聖書のみことば、ことばはイエスさまです。
信じて、イエスさまを私たちの生活の中にお迎えするとき、イエスさまはあかりですから、私たちの心の中の闇に隠されていたものが見える様になります。光によって舞うゴミが明らかに見えるように、はっきりと現れるようになります。

イエスさまは私たちの罪を十字架で処理するために、光に照らし出して見せて下さるのです。人は誰も他の何かと比べることなく、自分から罪を赦されなければならない存在だとは悟ることはないからです。

アダム以来の罪の血筋に生まれた人間は、罪についてはとても鈍感で、心が罪深いのは当然であり、誰でも同じように持っているものなので、誰それよりはマシだ・・、良くなるように頑張って居る・・とその程度の意識なのです。
でもそれは当然で、自分ではどうしようもない罪をやりくりし、なんとか互いに覆い隠して、取り繕いつつやっと生きてきたのが人の歴史です。

 しかし聖である神様には、いかなる罪も永遠に赦すことはできず、人は死という裁きに行き着くばかりです。
そのために、救い主として御子イエスさまが、私たちの希望の灯火として遣わされてくださったのです。
救われる為には、自分の罪に気づいてそれを処理しなければなりません。その唯一の方法は、イエスさまを信じて十字架のあがないを受け入れることです。

 明かりを枡の下に仕舞い込んでしまうように、生活の中に掲げて用いないなら、折角イエスさまに出会っても、イエスさまは私たちに働くことは出来ません。明かりを掲げて、人生の隅々まで照らすこと、問題や罪をあぶり出すことが、赦しの第一歩だからです。
そうして、そのひとつ一つをイエスさまに持って行くことで赦しを得ます。そこに隠し事のない平安が実現します。

それが、「聞く耳のある者は聞きなさい。」ということです。聴いてその言葉によって生きようとする者こそ、真に耳を傾ける者です。
みことばによって、大きな事にも小さな事にも確信を得て歩むなら、日常の事柄の中で積んだ経験は、永遠のいのちの確信につながって行きます。

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