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石ころ

秤りで量る



 また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量り(新共同訳「秤り」)で、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。
持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」(マルコ2:24~25)

イエスさまは、わざわざ「聞いていることによく注意しなさい。」と付け加えられている。
何に注意をするべきなのだろう・・と思った。

この箇所は、前節の「枡」という言葉を引きずって読んでいたので、なんとなく頭の中に、
昔市場で、チリメンジャコが一合枡に盛り上げるようにして、売られていた図を思い描いていた。
「多く量ってあげることで、自分にもそのようにしてもらえる。」人には気前よく盛り上げ量ってあげよかと・・

でも、およそ神の国らしくなくまるっきり今の世の教えのようであり、ご自分のひとり子さえも十字架で裁かなければならない神様の前で、人が盛り上げて量ることに何の意味があるのだろうと・・。

それは4章全体の流れとは違っていると読み返しているとき、ふっとこれは天秤のことではないかと気づかせられた。
天秤に掛けられているものは、「神の義とイエスの十字架」であり、「罪と赦し」であって、自分を量るときも、人を量るときもその秤りを用いよと、イエスさまによって備えられているのだと気づいた。

「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5:20)

主はご自身の天秤で私たちを量っていて下さる。すべてを完成して御国を用意していて下さるそいう天秤量り。
すべての人を公正に量られる主。でもその秤りはイエスさまがすべて完成して下さった恵みの秤りであって、自分に適用するとき赦しを受け、人にも適用するとき、見えるところによって一喜一憂することなく、希望を持って見つめ、無条件で愛することができるだろう・・。

でも、主がすべて備えてくださった恵みの秤りも、それを用いない人には無用となってしまう。恵みを無駄にしないために、何を用いるのか「良く注意しなさい。」と主は言われる。

「公正な天秤、公正な秤は主のもの。袋のおもり石も主の造られたもの。(箴言16:11)

新改訳で読んでいた私は知らなかったけれど、新共同訳では「秤」の文字が使われていることも教わった。
聖書は訳によって混乱するときもあるけれど、聖霊は気づかせてくださるから大丈夫。

道に迷うように聖書に戸惑うこともあり、従うにも手探りになることはあるけれど、聖霊は愚かな年寄りさえも、神の深みにまでも導いて下さるお方だから、霊は何処までも開かれるのぞみがある。明日もわくわくとみことばの森に迷い込もう!

「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。」(Ⅰコリント2:10)

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