ペテロが、ヘロデに捕らえられ殺されようとしていたときに、弟子たちは集まって祈っていた。
ペテロが無事に帰って来た事を女中から知らされても、信じなかった彼らだけれど、彼らの祈りは主に届いていたのだ。
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。 Ⅱテモテ:13
例え不信仰の中での祈りでも・・、「主のご真実」ただ、そのことによって祈りは聞かれている。そのことにより祈りに応えて下さる。もともと、私たちの何かによるのではないのだから。
主は私たちの祈りを無視することがお出来にならない。
主は、「あなたの信仰・・」と、追い詰められた者の欠片のような信仰を拾い上げて下さるお方なのだから・・。
「祈っています。」と言われることが私は嬉しい。たとえトンチンカンな祈りであったとしても、それは主の元に届くなら、最善が答えであると知っているから・・。
自分の中にある不信仰に絶望しないで、主と語りあおう・・、イエスさまが開いて下さった部屋に入って聞いて頂こう。私の人生に、私の知人の人生に関与して頂こう・・この絶望のような国にも・・。
では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。 ローマ3:3~4
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エシュコル
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