イスラエルの民は、常に共に居て守り導いてくださった造り主なる神を退け、他国民と同じ目に見える王を求めた。
神はその願いを聞き入れて、背も高く美男子のサウルを王に選ばれた。人は見かけを欲するから、偶像視される人たちは、皆なにか立派な様子をもっていなければならない。人は見た目が重要なのだ。
サウルは、王に祭り上げられることがなければ謙遜であり、自分の分の中で幸せであっただろうに・・と思う。
このことは、そもそも神から出たことではなかった。そこに彼のすべての不幸があったのだろう。
彼は兵士たちの反感を買うことを恐れ、主の聖絶の命令をないがしろにした。
此処で、神に聞き従った神による王権か、人を恐れ人によって立つ王権かが分かれる。
人を恐れることと神を恐れることは両立しない。人を恐れる者が、神に従って事を聖別することはできない。彼は以前にも人を恐れてサムエルを待つことができなかった。
「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」(Ⅰサムエル15:11)
神はこのとき、サウルを選ばれたことを悔やまれたと書いてある。
しかし、
「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」(Ⅰサムエル5:29)
サムエルはこう言った。
サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。(Ⅰサムエル15:35)
此処でも主は悔やまれたとある。これはどういうことなのだろう・・。すべてを見通す造り主は、人が塵に過ぎないことをご存じであるのに・・。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)
このみことばを思いだした。私たちも先に神によって選ばれた者であることを・・。
そうして、私たちも神にどれほど悔やまれる存在であるか・・と思った。
私たちの時々の選びその行いは、選んでくださった方を多々傷つけたこどだろう・・。命令によって歩むことができず、何度道を逸れたことか・・。
ただ主の忍耐によって、信仰に引き戻され守られているのだから・・。
悔いることのない神がその最善の計画を曲げ、人の願いの故に悔いなさることがある。
それでも、その私たちの不信仰、不出来のすべてを超えて、神はご自身の栄光をとってくださるお方である。
今、それは私たちには拠らず、ただ、ご自身の良い計画を成し遂げるみわざによって・・。だから、やはり神は「悔いることはない。」事実を完成してくださる。
私たちが、感謝をもって御前で安息し、弱さの中であっても、心から主を喜び御名をあがめていますように・・。
それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。
すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。(Ⅱコリント4:14~15)
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