石ころ

霊は肉の下には居ない



 霊は肉の頑張りにはよらない。霊は主の力によるものであるから・・。
肉は霊をあらゆる理屈をつけて攻撃をする。それは、肉は霊の支配下に置かれまいと戦うからであり、人の頑張りを葬る力を極度に恐れているのである。

 イエス様を激しく攻撃したものも、実に肉の働きである。
肉の力は自分の努力のたまものであり、自分の意志によって積み上げてきたものであるから、それを評価しない価値観を嫌悪するのだ。

このようにして、どれほどの神の意志が損なわれてきたことだろう・・。霊を肉の支配下に置こうとする働き。それは実におぞましいことである。
神の民をなぶるゴリアテに対して、聖なる怒りを覚える少年ダビデを攻撃する兄たちの言葉は、肉の内から吹き出てきたもの。

兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして、言った。「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。」(Ⅰサムエル17:28)

なぜ此処まで彼はダビデを憎むのか・・と思える言葉であるが、それは霊に対する攻撃である。肉が霊に対して怒るのには理屈はない。肉の生存のための戦いであるから・・。

罪の支配下にある肉は、神の支配にある霊を極度に警戒する。それは、霊に神の支配が及ぶ時、肉はその価値を失うからである。
その戦いは人の憎しみ怒りを掻き立てるのである。それはその人の内から出ていても、その人のすべてではなく、その人の肉によるのである。憎むべきはその肉の働きである。

それは、巧妙に言いくるめようとし、お前にはその価値はない、お前にはそのような権利はない。何も出来ないお前にそんなことができるわけがない・・と手を尽くして封殺してしまおうと計り続ける。そう、それは肉と霊の生死を賭けた戦いである。

ダビデの羊飼いの日常は、兄たち兵士の日常とは違う。同じように戦いの経験を積んでいたように見えても、ダビデは主の戦いのために上から備えられた力であって、そこには駆け引きは存在しない。神が勝たせてくださるからである。その経験の上にあってゴリアテに立ち向かうことができるのである。

人の肉による鍛錬ではゴリアテに立ち向かうことは絶対できない。人は駆け引きに拠らないと何も選べないから・・。立ち向かわないことが賢さなのである。
肉の力は霊の前には死ななければならない。神の働きの前に、肉はどれほど鍛えても役立たずであり、それは、霊を攻撃する力を鍛えるだけなのである。


もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、
「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。
そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。
そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。
こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。(コロサイ2:20~3:1)


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