石ころ

麦の穂




 聖書に、弟子が麦の穂を千切り手の中でもんで殻を取って食べていたことが書かれて居る。この動作を詳しく知っているわけは、幼い頃私も同じ事をしていたから・・。
戦後間もなくのひもじさを抱えた子どもの遊びであった。未熟な麦はやわらかくて、噛むとほんのりと甘くもっちりとするので「チューインガム」と呼んでいた。
短い季節の子どものおやつだったけれど、お弟子も同じ事をしていたのか・・、と親近感を持った箇所である。

 聖書を自分で読むことは危険と思い込まされていたことがあった。資格を持った方の聖書の手引きを買い続けて、決められた箇所を決められたとおりに学んで3年経った頃、「ムベさんにもうそんなものはいらないでしょう」と先輩姉妹に言われて、「えっ、そんなことが許されるの」という感じだった。

それからは読みたい箇所を通読し知りたいときは貪るように読み、しんどいときは同じ箇所にいた。そうしていつからか、みことばは生きて働く神の力であることを体験して行った。

 人伝に知るみことばはその人が咀嚼、吸収したものを受け取るわけで、聖霊に依って直接主と繋がるのとは感動が違った。
私がブログに書いているみことばは、どのような書き方をしても一番美味しい所は、私が頂いてしまっているのだと思う。
「通り良き管」と言うけれどそれは鉄管のようなものではなく、生きていてまず読んだ人の必要を満たす血管のようだと思う。

それでも聴きたいと願う私に、主は我が儘を許してくださったことがある。教会に来て間もない主人と息子を放り出して、ひとりで遠くまで通ったことがあった。「戻って、黙って座れ」と主に命じられるまで・・。
戻った時、「出て何年くらいになる?」と尋ねられて「3年位かな・・」と答えたけれど7年も経っていた。

 私は聴いている間ずっと確認をしていた。ひとりで味わってきたみことばが、偽りではないと確かめていたのである。知識的な事以外は、初めて聞いたことのようでも、以前から知っていた。
拠り所であるみことばは、

あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(Ⅰヨハネ2:27)

このことにおいて一人で読むことに、聖霊の豊かな導きを経験しているけれど、ひとりで読むことには謙遜も捧げ物もいらないが、人に聴くときには犠牲が必要である。
その時は魂的にも物質的にも主への捧げ物をもって、幼子のような信仰によって聴くからである。
「主の前には、何も持たずに出てはならない。」(申命記16:16)と書いてある。

謙遜になって聴くことは、時に主の訓練でもあり、喜びを分かち合い共有する恵みでもある。主はみことばを求めているかぎり、何処ででも私の必要を準備していてくださった。

目で読み、耳で聞いて教わり、口に出して告白し、足をもってみことばを生きるのである。
味わったみことばを聖霊によって管理して頂き、何時でも必要に応じて示してくださるから道を誤ることはない。反れているように見えても、みことばを追い求める道は平らで真っ直ぐであった。
パンを下さいと願う者に、ご御真実な主は石を与えることはなさらないから・・。

今主は、ほめられることもそしられることもない所に置いてくださっている。それはどれほど感謝なことだろう。それがどれほど大きな守りかは知って居る。


その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。(ルカ3:11~12)

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