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石ころ

種は腐らない⑥

 夕方に電話がかかって来た。どうせ、何かのセールス電話だろうと憮然とした返事をしていたのが、「メガネが出来ました」という声に、一変「ありがとう」に変わった。一週間後と聞いていたので、覚悟していたのだけれど早くできてホッとした。それでも、主婦だから夕方から出かけるわけにも行かず明日までがまんする。

 次の日の朝は、一緒に聖書を学んでいる女性との約束の日なので彼女の家に行く。先日、マリヤの処女懐胎にとても感動して居られたので、きちんと聖書からと思って、今日はルカ1:26~56、マタイ1:18~25を準備していた。何をするかは彼女が選んでいるという結果になっている。

 もう、彼女は自分の体調のことに触れることはなくなった。熱心に準備をしたプリントを読んで、「何でも聞いてごめんね」と言いつつよく質問もされる。
「ここで、『はしため』ってあるけど、『はしたない女』ということ?」「いいえ、下女というよな意味、つまり女中さんというか・・マリヤが自分は神様には何でもお従いするする立場にいる者ですといっている。『はしたない女』とは全く違うよ。」そんなやりとりもある。

私は彼女が何が分からないのかを知ることが出来るし、私の準備の不備もよく分かるからありがたい。何よりも、次に何を準備するべきかがわかる。昔、聴覚障害の息子に、私流に準備して小学校の勉強を教えてきたことが思い出された。何か役立っているのだろうな。主はすべてを益にしてくださるお方だから。

 今日はヨセフに感動をしておられた。彼を支えたものは信仰だったと思うと話す。マリヤはヨセフに相談もなく神様に従順した。私たちも信仰を持つときは、誰にも相談をせずにひとりでイエス様を信じる。それによって家庭のいろいろな問題が起こることもあるけれど、イエスさまは決して家庭を破壊することなどなさらない。むしろ「あなたもあなたの家族も救われます」と約束をしてくださり私たちの家庭を守ってくださると話す。

 ヨセフは神様への信仰も篤い人だったと思うけれど、マリヤをも信頼していたのだと思う。また、神様もヨセフとマリヤを信頼してくださったのだろう。神様が人を信じてくださったということに驚く。イエスさまのいのちを預けてくださったのだから。イエスさまは彼らに30年間従順してくださった!人と神の完全な愛の形を見せてくださった。だから本当は知ることのない神様に向かって「アバ、父」と祈ることが出来る。だって、愛のない私にも家族の愛はわかるから。

 彼女は突然「『神様』がよくわからない、私は神社の社に向かって祈る神が浮かんでくる。」と言われた。天地創造の神だと創世記を少し話しただけで、「すごいことだ」と言われたので来週は創世記を準備することを約束をする。

「友達に『イエス・キリストがどうして十字架にかかったかわかるか』と聞くと『そら悪いことをしたからに決まっている』と言ったので、『違うで。それは私らの罪の身代やねん。私もまだ教えてもろうている途中やけど・・・』って教えてあげた。」と話された。ただ、知った喜びを友人にも分けてあげたいという気持ち。神様が準備してくださった言葉なんだろう、自然だなあ・・・。

 
 家に戻って主人の昼食を手早く準備をし、すごい晴天なので先日の毛布を干して、やっとメガネを取りにデパートに出かけることが出来た。遠近両用の新しいメガネにはさずがにすぐに慣れることは出来ないでちょっとふらつく。「度がちょっと進んでいるので、慣れるまでは気を付けてください。」と言われたけれど、景色が明るくなった事も事実。

でも、勧められた鏡をのぞいたとき、はっきりと見えたものは自分の目の下の深い皺だった。なるほどよく見えるということはこういうこと。孫が来るのでおもちゃなどをついでに買い、昼食がまだなのでよけいにふらつくのかと先日入ったお店で「ちゃんぽん麺」を食べる。何か美味しい物を食べようとはほとんど私は思わない。いつも面倒くさくて手早く適当にすませてしまう。

 新しいメガネで歩き回ったせいで無理矢理かなり慣れたけれど、やはり疲れ夜はお風呂を出て8時過ぎに床に入ってしまった。床の上での祈りの中でメガネを感謝して、それでも新しいものが手に入ったからといって、それだけで幸せになることはできない。主の愛の中にいるときこそ、本当の安らぎを得て幸せであることを再認識をして感謝をする。


「神にとって不可能なことは一つもありません。」
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:37~38)

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コメント一覧

石ころ
イチゴさん
お祈りを感謝いたします。

本当に、主は必ず失ったものにあまりあるものを備えて返してくださっています。
それとともに、主を愛する心を育んでくださいます。
イチゴ
「おかあさん~」を読んで
ふたつもコメント書いてすみません。
少し前のブログに書かれていた「オリンピックはうわの空で戦争のことばかり考えている」を読ませていただいて感じたことを書きます。
「ああ こんな人がいるのだ」という衝撃。上手く書けませんが、素晴しいオリンピックを前に 悲しみを抱きながら居る人。その悲しみが伝わってくるようで(おそらく私には何も分からないでしょうが)私も悲しく、でも私以外にそんな人がいることを知って慰められたような気持ち。
私は何が悲しいか。というと。私は全く自国の戦争を知らない。が戦後という言葉を聞くと 何を言ってる!と思う。この世で戦争のないときが 一瞬でもあったというのだろうか。人が善悪の木の実を食べたときから 人は罪を犯し続けている。それに打ち勝つことが出来るのは神だけ。しかし神に触れられた人は少ない。祈りによって主を求めることしかできない。いや これさえ出来れば他の努力は不要なのに。そう考える一方で 私はオリンピックを娯楽として楽しんだ。私が楽しんでる瞬間に 最悪の状況にある人のことを横において。他人の悲しみの感情を私は共有しやすく それによって心の許容量を超えてしまいがちだから。それで 石ころさんの存在が嬉しかった。
思い出させてごめんなさい。
石ころさんが失った大切なもの 神が知っておられ
ひとつひとつ埋め合わせて 余りあるものとしてくださいますように お祈り申し上げます。
 
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