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石ころ

信仰 ②

 福音に接して、イエス・キリストの御恵みを溢れるばかりに受ける祝福の時、それは信仰の入り口。でも、このときに主は良いお方であることを知り、信頼できるお方であることを体験することはとても大切なこと。だから、主は手放しで気前よく願いを聞いてくださる。それはまるで、赤ちゃんがお腹いっぱいおっぱいをもらって、甘やかされて、抱っこしてもらって、お母さんの絶対の愛を知るのと同じよう。

でも、生きているものは成長しなければならないから、生きた信仰もいつまでもそのままにはいられない。主の一方的な愛の注ぎから、自分で主の御愛に応答するときが来る。私たちが信仰を選びとることが必要な時が必ず来る。選び取るためには、まず、それまで積み重ねてきたものを捨てることから始まる。

 イサクを捧げたアブラハムのように、ヨブのように・・・。信仰によって得たものさえも捨てて主のご計画通りのもの、その2倍のものを受けなければならない。「2倍はいらないのでこのままで居させてください。」それは不従順以外の何物でもない。それは主との断絶を意味することだと思う。

なるほど、主はそのままにされることもあるけれど、振り返ってみれば「あなたが、今抱きしめているものを捨てなさい。」と繰り返し、何度もいろいろな出来事を通してうながされ、先に進むようにと、忍耐強く導かれていたことに気づく。

 ヨブは、結果から見れば無理矢理のように見えるけれど、
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1:21)
と高らかに告白している。彼には、常日頃から主にすべてをお委ねする祈りがあったのだろうと思う。

「どうか主の時に、私たちがあなただけを選び取ることができますように。あなたは私たちを良くご存じですから、必ず強い御手で導いてくださいますように、この身をお委ね致します。私たちが健やかに成長することが出来ますように。みこころ通りに成長して、あなたの備えていてくださっていますものを、しっかり受けとることができますように。アーメン」

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