弟子たちがイエスさまと一緒に居たときには、イエスさまに養われ自分で働く必要はなかった。けれども、今は世に戻って、食べて行くために仕事をしなければならなかった。
しかし、「その夜は何もとれなかった。」自分の食べる分さえ獲ることが出来なくて、彼らはもう昔のようではなかった。
彼らはこの世の者ではなくなっていたので、自力で食べて行くことが出来なくなっていた。
明るみの中にイエスさまが立っておられるのを見ても、彼らには分からなかった。言葉を交わしてもわからなかった。
イエスさまのお言葉に従った時に霊の目は開かれ、私たちはイエスさまを見ること、知ることができる。
「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」ヨハネ14:18
お言葉通りに突然イエスさまを失って戸惑う彼らに、もう一度来て下さったイエスさま。
お言葉の通りにすると、
「網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。」
神より発したことによっては、多すぎて大切な網を破るような結果はなく、足りなくて恥をかくような貧しさもない。
「ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。」
ペテロは、裏切ったイエスさまが来られたことを知って狼狽えている。すべての裁きをイエスさまに委ねていても、やはり人は狼狽える。
一刻も早く会わなければならないと・・そんなペテロの焦る心の内が、ここの記述に現れていているように思う・・。
ほかの弟子たちは、イエスさまのお言葉の結果を満載してやって来た。イエスさまのおことばの実を満載して、大漁旗をなびかせてイエスさまの所へ帰ってくることは、なんと素晴らしいことだろう!
しかし、イエスさまはすでに食事の準備をしていてくださった。
「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」詩篇23:5
この世で、神の子らが生きて行くための備えは主がしていてくださる。そこに、彼らの働きをも増し加えてくださり、喜びをもって生きることができるのだ。
霊と魂と体のずべての必要を満たし、癒してくださるイエスさまは、ペテロの裏切りの言葉の数だけ回復のチャンス、新しい告白のチャンスを準備してくださった。
主は失敗をも益としてくださる。
「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」
3回目の、イエスさまを信頼しきったこの告白は素晴らしい。
ペテロに告げられたことばは、
「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
それは、何時もいっしょにいたヨハネと一緒ではなく、
「あなたは、わたしに従いなさい。」
ひとりになって主に従ってゆくことを告げられる。イエスさまに従うときには、私たちの好みによる仲良し選択はできない。
ペテロは、小舟でお言葉の実を満載して、神の栄光を現す仲間には居なかったけれど、彼は自身の死に方をもって神の栄光を現したと書かれている。ハレルヤ。
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