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石ころ

主の備え (ヨハネ21章から)



 弟子たちがイエスさまと一緒に居たときには、イエスさまに養われ自分で働く必要はなかった。けれども、今は世に戻って、食べて行くために仕事をしなければならなかった。
しかし、「その夜は何もとれなかった。」自分の食べる分さえ獲ることが出来なくて、彼らはもう昔のようではなかった。
彼らはこの世の者ではなくなっていたので、自力で食べて行くことが出来なくなっていた。

明るみの中にイエスさまが立っておられるのを見ても、彼らには分からなかった。言葉を交わしてもわからなかった。
イエスさまのお言葉に従った時に霊の目は開かれ、私たちはイエスさまを見ること、知ることができる。

「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」ヨハネ14:18
お言葉通りに突然イエスさまを失って戸惑う彼らに、もう一度来て下さったイエスさま。

お言葉の通りにすると、
「網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。」
神より発したことによっては、多すぎて大切な網を破るような結果はなく、足りなくて恥をかくような貧しさもない。

「ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。」
ペテロは、裏切ったイエスさまが来られたことを知って狼狽えている。すべての裁きをイエスさまに委ねていても、やはり人は狼狽える。
一刻も早く会わなければならないと・・そんなペテロの焦る心の内が、ここの記述に現れていているように思う・・。

 ほかの弟子たちは、イエスさまのお言葉の結果を満載してやって来た。イエスさまのおことばの実を満載して、大漁旗をなびかせてイエスさまの所へ帰ってくることは、なんと素晴らしいことだろう!

しかし、イエスさまはすでに食事の準備をしていてくださった。
「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」詩篇23:5
この世で、神の子らが生きて行くための備えは主がしていてくださる。そこに、彼らの働きをも増し加えてくださり、喜びをもって生きることができるのだ。

霊と魂と体のずべての必要を満たし、癒してくださるイエスさまは、ペテロの裏切りの言葉の数だけ回復のチャンス、新しい告白のチャンスを準備してくださった。
主は失敗をも益としてくださる。
「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」
3回目の、イエスさまを信頼しきったこの告白は素晴らしい。

ペテロに告げられたことばは、
「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

それは、何時もいっしょにいたヨハネと一緒ではなく、
「あなたは、わたしに従いなさい。」
ひとりになって主に従ってゆくことを告げられる。イエスさまに従うときには、私たちの好みによる仲良し選択はできない。

ペテロは、小舟でお言葉の実を満載して、神の栄光を現す仲間には居なかったけれど、彼は自身の死に方をもって神の栄光を現したと書かれている。ハレルヤ。

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コメント一覧

エシュコル
あっ、いや・・・
http://yaplog.jp/sweetwordcanon
狼狽(うろた)える、と書いていただけると、なんて読むのか、また漢字の勉強にもなるので、助かります。
石ころ
主よ。感謝します。
カオリンさん
分かち合ってくださって心から感謝いたします。
姉妹にお聞きしてから、喜びを持って思い巡らせていました。

ペテロに合わせて下さった主は、私たちの低い所にも下って来て、みことばを解き明かして下さるのだと思いました。

だから、奥まった部屋で主から直接聞くことばは、とても甘いのだと思います。
その甘いみことばを分かち合うとき、互いに主をほめたたえ、共に喜ぶことができると、喜びは倍になりますね。

これからもいよいよ主を喜び合いましょう!ハレルヤ!
カオリン
どうやら送信に失敗していたようですね。
いつも楽しい交わりを感謝しています。

「たとえ皆があなたに躓いても、私は決して躓きません」と断言したペテロが、自分に対する過信と人の弱さを知ったのだと思ったのです。

イエスがアガぺー?と問われ、ペテロはフィレオで答える。(以前なら自信満々にアガペーと答えたかも知れないが)不完全な人であるペテロにアガペーで返答できるはずもなく、精一杯の思いでフィレオと返したのだと思いました。

二度目に念を押すかのようにイエスはアガペー?と問われますが、どうしてもフィレオでしか返答できない自分の真の姿をぺテロは知っていました。アガペーと言いたくても私にはそれが出来ないんです、アガペーで愛したくても私はそれを持っていません。と押しつぶされるような思いで正直にそう答えたんだと。

三度目は、優しい眼差しで(神の愛のような)アガペーではなく(人としての精一杯の)フィレオの愛で愛するかと問うてくださるイエスとペテロのやりとりに 何ともいえない甘くて深い 温かく沁み透ってくる二人だけの時間を感じたんです。

自分の弱さを知って正直な心で主に向かい合い、「私に従いなさい」と主に導かれていくペテロ。私もそうでありたいのです。

石ころ
エシュコルさんへ
すみません。
「うろたえる」です。
変換してしまったのです・・ひらがなで書くべきでした。
エシュコル
http://hswofach-wtl.jugem.jp/
>狼狽える

何と読むのでしょう?
石ころ
カオリンさんの導き
カオリンさんお電話の御交わりを感謝します。
21章を共に分かち合って下さって嬉しいです。

イエスさまがペテロにアガパオーの愛で問われるとき、彼はフィレオーの愛で答えたのですが、彼は自分の愛の正体を知って、どうしてもアガパオーの愛では答えられなかったのですね。
そのようなペテロに、主は3度目にフィレオーの愛に下って来て、問いかけてくださったという・・、姉妹から教えて頂いてとても感動しています。

この問いかけの箇所は何度も聞いていたのですが、このようなイエスさまとペテロの深い愛の交わりがあったことを知りませんでしたから・・。
勝手に書き込んでしまってごめんなさい。
このブログを見て下さる方とも分かち合いたかったものですから、お許し下さい。これからもどうぞよろしくお願いします。
楽しみにしています。
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