石ころ

啖呵




 みことばの戸が開かれていないところに聖書の言葉が掲げられていても、それはまるで「言(ことば)」から離れた「葉」のようで、葉ばかりで実の成らないイチジクである。キリストの必要を満たさないものは枯らされてしまう。

みことばが生きて働くためには、そのことばに身を賭ける信仰が必要である。そうでないと山のように聖書の言葉を積み上げても、なん役にも立たず、力ない言葉はキリストの恥でしかない。
イエスさまは「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。

 キリスト者は自分自身にも、外に向かっても啖呵を切るようにして生きる。「弱さのうちに完全に現れる」神の力の現れを得るために、無学な弱者でしかない者が「この馬鹿者に働く神のわざを見よ」と啖呵を切る。

神の力の「完全な現れ」がどれほどのものか、それは語った本人が一番驚くことになる。
それは見たことも聞いたこともないことが起こるからである。その時、「我が主。我が神」と心から御前にひれ伏し礼拝するのだ。
ただキリストに信頼するだけで、どんなに弱くつまらない者にもできることである。
弱さに妥協しているなら裸の恥を世に曝す。みことばに何の力もないことを証明しているようなそれは神の恥である。

 決して裸で啖呵を切るのではない。生まれながらの身をあがなってくださったキリストを着て、キリストの信仰に拠ってのことである。
キリストを着ればキリストが働かれ、キリストのわざが現れる。そのようにして信仰は養われて行くのだ。

あんなこと、こんなこと・・次々と起こる問題や弱さ。そのようなことがキリスト者から語られることはやりきれない。そのような言葉を口にする不信仰、そんなものを分かち合うどこに主の栄光があるのか・・。
キリスト者は、たえず主をほめたたえるべき者である。主はほめたたえるべき経験をさせてくださる。御真実なお方だから。

みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。(詩編119:130)
信じたことがないなら開かれない。開かれないから光がない。光が無いと悟ることもない・・。
どうか「信じます。この不信仰な者をお赦しください。あなたの栄光を現させてください」と叫んでほしい。

・・見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。・・(黙示録16:15)

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