石ころ

奇跡は交わりの喜び




 初めての感覚
前後は土砂降りなのに、バイクで走り続けても目の前の雨には追いつかず、ずっと霧のようなものに包まれて、それは感じたことのない清々しさであった。
あまりの降りに心配した息子が玄関前で待っていて、服も荷物も濡れていないことで驚かせたことがあった。

 ユーモラスな思い出。
欲しいと思っていたものが特売されていたけれど、日曜礼拝の後ではどうせ売り切れだろうとあきらめたことがあった。
礼拝後買い物で立ち寄ってみると、その商品は広い台の上に一個残されていた。驚きと嬉しさ一杯だったことは覚えているけれど、それが何だったのか覚えていない。
商品よりも「イエスさまが確保していてくださったんだ!」そのことが嬉しかった。

 うっかりミス
バイクで買い物をして帰ると電話が鳴っていた。それは警察からで、「財布を落としましたね。届いています。」国道に財布を落として走っていたのだ。
また息子達が帰郷する途上のドライブインで、財産の入ったポーチをトイレに忘れた時も無事に守られ、一緒に祈った主人と深く感謝したのだった。

 就職の備え
次男の企業面接の前日にスーツを持って駆けつけた。寮では出会えず、学校の研究室から出て来た息子は、髪はボサボサ・・真っ黒な髭面にこけた頬。一目で私は怒りがこみ上げてきた。そんな姿で面接に行く気なのかと・・しかし散髪に間に合うような時間ではなかった。

先生から東京本社の場所を説明されたけれど、大都会のラッシュ時間にとてもじゃないけれど連れて行けるとは思えなかった。
耳が不自由なこともあって付き添うことを期待されたようだけれど断るほかなかった。ホテルに着いても祈ることも出来ないほど疲れて、翌日帰って来てしまったのだけれど珍しく長いfaxが届いた。

門を出たところで呼び止められて一緒に行く人があり、無事に面接が終わったことが書かれていた。読み終えて私は主の備えにひれ伏した。
入社してもう20年以上になる。その間には会社にも大波乱があったけれど、すべては主から発していると知っていることによって、一喜一憂することはなかった。

 ブログに書けることなどごく一部
御憐れみの中で歳を取り、「イエスさま!」と目覚め、「イエスさま、夢の中でも近しくいてください・・」とつぶやきつつ眠りに就く・・。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。(Ⅰヨハネ4:15)

 父なる神様、御子イエスさま、聖霊が私のうちにいてくださる。良いときも、悪いときも、病むときも、また何かに夢中になっている時も、その事実は変わらない。祈りがきかれるときも、きかれない時も主は共にいてくださる。
「良い事が起った。」それだけが嬉しいのではない。主がすべてを知って居てくださることが何よりも嬉しいのである。
愛されている確信があるので、望まぬ事が起こって慌てている時でも「一体この事を通して、どんな不思議なことを経験させてくださるのだろう・・」と、心の何処かでワクワクしてしまうのである。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
神の神であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。
主の主であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。
ただひとり、大いなる不思議を行なわれる方に。その恵みはとこしえまで。(詩編136:1~4)

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