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石ころ

失ったもの

 孫達が来るからと、毎日少しずつ普段しない所の掃除をしている。昨日はカーテン、のれん、クッションなどの大洗濯をした。部屋の中が少し明るくなったみたいで、働いた私が一番気持ちよく嬉しい。

 コップ立てを洗っていて、本当にこれは丈夫で扱いやすいなぁ・・といつも感謝をする。裏を返して見てみるとやはり「Made in Japan」。買ってからもう30年近くなるはず・・・。塩素消毒も簡単に出来る。

こんな製品を作っていた人たちは、きっとこのような生き方をしていたのだろう。学校を卒業してすぐに小さな町工場に勤め、真面目によく働く青年で、近所のかわいい女性と知り合って、社長に仲人になってもらって結婚をして、やがて子ども達も就職をして親元を離れてゆく。そんな普通の穏やかな人生の様子を思い浮かべることができる。

 しかし今、河原の掃除をしていると、そこには大量のゴミが捨てられてあり、それらの中にはバーベキューの道具一式や、布団などがそっくりそのまま捨てられていたりする。それらはあまりに安く手に入るから、買った人にとってはわずかなお金の価値だけの物であり、楽しんだ後は邪魔になるだけなのだろう。そこには、作った人との関係は何も無い。

 昔は何処に行くにも、お重箱に料理を詰めてそれを持って行き、家族で母の手作りを楽しんだ。いつもだいたい同じような料理でそれがお袋の味だった。何も言わなくても、みんな母が早くから起きて作ってくれた物であることを知っていたので、綺麗に食べて、残り物はちゃんと持って帰って夜も食べた。家のお重箱は大切に親から子へと代々使ったものだった。そこには、物にもその家族の生活や人生が染みついていて、懐かしくもいとおしく、ゆったりとした時の流れが刻まれていた。

 今は、グローバル化か何だか知らないけれど、どこからかいろいろな物が溢れるように、押し寄せてきて、何が何だかわからなくなってしまって、物からも感じることができた「人」が完全に失せてしまって、すべてはお金の価値でしかはかられなくなってしまった。

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コメント一覧

石ころ
でも、ひとことだけ・・
本当に私たちの飢え渇きを満たしてくださるお方をお伝えしたいですね。

否応なくこの世の流れの中に呑み込まれてしまっていますが、時々立ち止まることが出来ることは幸いです。
我が家の流し台の会社に表彰状を送りたいと思ったことがあります。
イチゴ
今日夕食のためのお茶碗を出そうとしたら 横の食器が雪崩れるように落ちてきた。うっかり手元が、と思ってると棚板が傾いて外れている。良く見るとすべての板が今にも外れそうだ。20年以上使ったから買い替えを考える。多分我が家は同じ年代の家族に比べて何でも長く大事に使ってると思う。なぜなら買い換えると え?っていうぐらい商品の性能が変化してるから。購入に行くと多分 すごく安いか結構高価かのどちらかだろう。確かに作った人の顔が分からない商品が世間には ほとんどだ。若い人(自分の子も含め)は安い物を買ってあまり大切にしない。直ぐに代わりがあるし、いくつも欲しいし その時良ければいいのだ。しかし今の人が昔に比べて大変貧乏かというとそんなことはない。持っているからこそ もっと欲しくなるのだ。新しい刺激を求めて欲望を満足させる。いいや心が本当に満足していないから。キリストの命にある満足を多くの人に得てほしいと思う。私に出来るのは 手間をかけて物を大事にしつづけること。でも世の流れに逆らってまで続けるのは非常に労力を要する時がある。それはそのときは 自分の出来ることだけで神が良しとしてくれると感じる。
いつもお返事ありがとうございます。毎回のお返事の心配はご無用にお願い致します。お孫さんとの楽しいひとときをお過ごしくださいませ。
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