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石ころ

時を掴む


 時を逃さないことの大切さを今週のメッセージで教わった。
ちょうど、今週「種は腐らない」で話している女性が、懸命に「時」を掴み取られた経緯を話してくださった。彼女はある信仰を持っておられた。そこで「○連さん」を信じていたと言われた。でも、ある時、その信仰仲間を見て「ろくな家庭がなかった。」ということで、これは違うという思いに至ったと・・

そして私の中にある、「何時も変わらない、おおらかなもの」を感じ取り、何とかして加わりたいと思い、手作りのご馳走を幾度も、幾度も持ってきてくださるというご馳走攻めとなり(絶対に何も返さないでという断りを付けて)、出会うたびに謙遜に「教えて」と攻め寄るという方法をとって、福音を聞くという「時」を勝ち取られた。

 彼女はまだ、「この生き難い世の中を生きるためにも」と言われる、それはとても正直な言葉だろうと思う。でも、創世記1:1を知って、「この神様が天と地を造られたのだということがはっきりわかった。○連さんより元からおられた神様だから本物だと信じられる」そして今、喜びの毎日を過ごし、毎週、私の準備をしたものを「繰り返し読んでいる」と言われる。

 でも、その信仰は非常にユニークで、私は聞いて時々ショックを受けることがある。
「親戚の50回忌の法要を家でしてあげないと、する人がないことがわかって、12月が命日と言うことが分かってすごくあわててしまった。知り合いに聞くと、『そんなことは1年も前、少なくとも数ヶ月前にお寺に頼まないと無理、無理』と言われて、どうしょうかと思いつつ、全然つきあいのないお寺へ頼みに行った。行くとき本当に一生懸命『イエスさまどうか宜しくお願いします。なんとかしてください。』って祈りながら行ったよ。そうしたら、初めて出会ったお坊さんが『12月○日にしてあげます。』って言ってくださって、本当にこんなにスムーズに進むって信じられないくらいでとってもほっとした。帰ってきてから心からイエスさまに感謝のお祈りをしたよ。」
 
私は、その話をほとんどあきれながら聞いていたけれど、途中でニヤニヤしてしまった。イエスさまも驚かれただろうなぁ・・・と思うとおかしくてたまらなかった。家に帰ってからひとりで「アハハ・・アハハ・・」と転げ回って大笑いしてしまった。

でも、主は彼女の価値観をいきなりぶっ壊すことなんか考えてはおられないのだと気づかされた。この前「私は面白がっていればよい」と書いたけれど本当にそうなんだと、主のお導きの多様さに、私の型にはまった堅い信仰の目が開かれてゆくようだった。

 彼女は世を見てそこに祝福のないことを感じ取り、らい病人が癒しを求めたように、盲人が見えることを求めたように、ベテスダの池で「よくなりたい」とイエスさまに求めた人のように、祝福を求めて彼女の力を尽くした。

でも、これからは主ご自身を求める旅が始まる。もし、この世の祝福だけを求めたのなら、それだけしか与えられないだろう。もし、それならこの世の人々と結果は何も変わらない。そして、イエスさまの悲しみだけが残るだろう。
「わたしに何をしてほしいのか。」と主は聞かれる。答えるのは彼女自身。「どうぞ、彼女がイエスさまの喜びとなり、満足となりますように。」と私は祈る。

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