ユダは主であるお方、いつも身近にみことばを聞いていたそのお方ではなく、サタンに従った。銀貨30枚のために救い主を売った。
そんなユダにさえイエス様は「友よ」と呼ばれ彼が悔い改め、憐れみにすがる最後の「とき」を準備してくださった。彼がみ声を侮ってその時を逃してしまっただけ。
ユダにはユダの考えがあったのだろう、まさかおめおめとイエスさまが、無実の罪を負って十字架にむかわれるなんて、ユダには想像も出来なかっただろうから。
「イエスが罪に定められたのを知って後悔し・・」と書いてあるから、まさか、一片の罪もない方が罪に定められることはないだろう・・と自分の想像できる範囲で甘く考えていたのだと思う。まして、死罪になるなんて・・・まして十字架刑なんて思いもしなかったのだろう。
彼が自分のしたことの結果を知ったときには、イエスさまの備えてくださった「時」は過ぎ去ってしまっていた。サタンは「知ったことか」というだけ。彼は自分の行動の結果を「自分で始末する」ほかなかった。
主を自分なりの考え、甘い判断によって侮ることは恐ろしい。時は一瞬に過ぎ重大な「とき」を持ち去って行く。サタンは私たちの思いの中にそっと忍び込み、大したことではないとささやく。私たちは愛する方をそれだけで売り渡すことができる。そのようなチャンスをサタンに与えるものは、ユダがお金のことで頭が一杯だったように、この世の価値感に振り回されている時なのだろう・・。
ユダは財布の中ばかり見ていた。私はイエス様から目を離してはならない。けれども、それでも失敗をした時、「友よ」との御声を聞いたなら、その瞬間、恥も外聞もなく御前にくずおれよう。私の罪も、失敗も、恥さえも覆ってくださる主に。
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