ウザは不敬の罪で打たれて死んだ。
神の箱が、揺れる牛の背から落ちそうになったとき、触れてはならない箱に触れたことで打たれて死んだ。
「あっ、落ちる。」彼は、いつも荷物を運んでいたときのようにとっさに手で押さた。彼にとってはそれだけのこと。
彼には自分の立場がよく分かっていなかった。自分に託されているものの聖さにまったく無頓着だった。そんな気がする。なぜなら、彼の行動には恐れがまったく感じられないから。
「彼らは、神の箱を、新しい車に載せて、丘の上にあるアビナダブの家からそれを神の箱とともに運び出した。アビナダブの子、ウザとアフヨが新しい車を御していた。」(Ⅱサムエル6:3)
ウザは車を御していたとある、彼はその揺れる牛車を止める権利を持っていたということ。彼の仕事はこの行列を止めることであった。
もし、神のことばに対るす恐れ、今揺れる車で運んでいる箱に対する敬虔があったなら、彼はその恐れから動けなくなっていたはずである。
「汝ら、静まりて、我の神たるを知れ。」(詩編46:10)
創造主である真の神を知ることを赦された私たちにとって、イエスさまの十字架の血で洗われたという自身の価値をわきまえていたい。
本当に、今日という赦しの中にある日をどのように歩むのか、真にみことばを恐れ、それを生きることを教えてくださいと祈る。
「あなたがたが、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、主を恐れることを学ばなければならない。」申命記31:13
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