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石ころ

ちりあくた



アテネの人々は偶像を集めて、その教えを楽しんでいた。彼らは自分たちの知性を誇りとしていたのだろう。どんな教えであっても、彼らの知的好奇心を満足させるものなら大歓迎だったのだろう。議論を繰り返して、互いに己の賢さに酔っていたのだろう・・。
彼らは寛大で、まだ知られぬ神さえも迎えていた。

しかし、死んでよみがえった者の教えは荒唐無稽であり、その愚かさゆえに彼らの知性は受け付けなかった。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)

パウロはすべてを捨てて用いられた。
「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ3:8)


人の賢さによって主を伝えることはできない。みことばは人にとっては愚かな言葉なのだから。人の賢さと神の力を混ぜて用いることはできない。それは善悪知識の木の実を食して以来の汚れたものなのだから。

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