それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。
その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。
また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。(マルコ9:2~4)
イエスさまは、十字架で殺され三日目によみがえることをはっきりと話された後、ペテロとヤコブとヨハネの三人を山に導かれた。
神様は人を選ばれる。このことは厳粛な事実である。私たちに選びを論じる権利はなく、選ばれたことをただ感謝する者である。
アベルとカインの捧げ物から主はアベルの捧げ物を選ばれた。カインは主の選びに服するべきであった。神様はカインに対して不利な扱いをされたわけではない。ただその時アベルを選ばれたのである。カインに悪い心がなければ選ばれるチャンスは残ったのだ。
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16)
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。(Ⅰコリント1:27)
イエスさまは彼らにご自身を現してくださった。ペテロが告白したキリストの御姿である。そうして父なる神様も彼らに御声を掛けてくださった。
そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。(マルコ9:7)
神様はイエスさまのお言葉を証明して、「彼の言うことを聞きなさい」と言われた。それは十字架の予言を受け入れよということである。
なを、イエスさまも重ねてよみがえりのことを話された。
さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。
そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。(マルコ9:9~10)
彼らは、「心に強く留めた」とあるが理解できず、仲間で論じることはあっても直接尋ねることは恐れていた。それは、初めに拒否反応があってのことであろう。
聞かなかったことにしたい。人にはそういうことが幾らでもある。それは逃げであり、みことばと御姿を見ても御父の声を聞いても・・という頑固さであった。
そんな時彼らが「誰が偉いかを論じあっていた」とあるように、みことばから目を背けると人はすぐに堕ちて行く。イエスさまのお側にいてさえそうであった。
この世の弱い者を選んでくださったのに、強い者を望むようになり、それはみこころとは真逆を願うようになって行くのだ。
しかし、「あとでわかるようになる」と、見捨てられることなく待ってくださる主の忍耐に、ただ、ただ感謝である。
私の救われたのはこの主に忍耐によることである。
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)
連休は終わった。次男の通読箇所を交読し、みことばを並べあって話し合うことは楽しかった。
明日からはまたひとりで読むことになる・・。
コメント一覧
ムベ
電気屋
最新の画像もっと見る
最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事