石ころ

下がれサタン (マルコ8章)




するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」
するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。

それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。

しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マルコ8:29~33)


 ペテロにとってはイエスさまは、家も家族も職業も捨てて従って来たお方である。心から敬愛して、「キリスト」と告白したばかりのイエスさまから、ご自身の十字架で死刑という、あまりにも理不尽で残酷な予言を聞かされたのである。即座に受け入れられるわけがない。
「アーメン、みこころがなりますように」と誰か言えるだろうか。

しかし、みことばを否定することは、サタンのわざであるとイエスさまは言われた。
「神のことを思わないで人のことを思う」それは、今もサタンのわざであることに変わりはないのだ。

キリスト者にとって従順しかないことは幸いなのである。主の叱責は守りであるり導きである。主は忍耐を持ってその愛する者を導いてくださる。
主は永遠をご存じで導いてくださる。しかし、昔も今も人には何も分かってないからである。

「アーメン」はその内容を理解しての同意ではなく、主を我が主として従順する言葉。
見えない目で見てもわからず、聞こえない耳で聞いてもわからない事柄は、それまでの主とのお交わりの中で、経験によって知っている「良き方」に身を任せることである。

イエスさまは、ペテロの「あなたはキリスト」という告白を聞いて話されたのはそのためで、彼にはそのように告白できるだけの信頼関係が出来ていたからである。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。(ヘブル12:6~8)



 幼い頃に良く買って貰ったチャイナマーブルという飴があった。赤やピンクの円い小さな飴だった。舐めているうちに次々と色が変わってゆくのが面白くて、汚い手で(たぶん・・)何度も口からつまみ出しては確かめて楽しんだ。

今、みことばがチャイナマーブルみたいだと感じている。読む度に景色が変わってゆくから・・、何度読んでも飽きることも知り尽くすこともない。
色が変わっても飴は飴であることに変わりがないように、みことばは初めから主のことばに変わりはないのだけれど、無限に違う景色が開けて来そうな・・実に不思議な本である。 

幼い頃に次の色を期待してわくわくしたように、今日開かれる景色を期待してそれは楽しい時間なのだけれど、日々日記に書き散らすだけだと借りが溜まってゆくようで、そんな時「口には甘いが腹に苦い・・」と思ってしまう。
私だけのために主が語られるわけはないので、あまり溜めないようにしなければ・・と言うことで今夜はこれでほっとしよう。

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