マタイ14:22~34、マルコ6:45~53から
イエスさまはいつも、人が弱いことを心に掛けていて下さいますから、先にお弟子たちを休ませようと、強いて向こう岸に向かわせなさいました。
そうして、ひとり山に登って祈っておられました。イエスさまの心が安まる時は、祈りの中で父なる神さまとおられる時だけでした。
人は誰もイエスさまを理解することは出来ませんでした。弟子たちや家族でさえ、イエスさまを理解しては居ませんでした。
この地上に居られた間イエスさまはとても孤独でした。だから淋しさをよく知っていてくださるお方です。私たちが誤解や失敗で人に捨てられた時にも、イエスさまは赦しと慰めを持って近づいて下さるお方です。
そのようなイエスさまを知っているからこそ、私たちは他人や、自分のことを恐れることなく、「はい」は「はい」と、「いいえ」は「いいえ」と、はっきりと言うことが出来るのです。
弟子たちが、夜中の湖で風や波によって舟を漕ぎあぐねているのを見て、イエスさまが来てくださいました。
初めの計画は弟子の所へ行くのではなく、姿を見せて力づけようと思っておられたようですが・・
しかし弟子たちはこともあろうに、イエスさまを幽霊と見間違えて恐れました。彼らのような屈強な漁師であっても、枯れ木さえ幽霊に見えるほどに人とは弱い者です。
心おびえてしまうと、正しい判断力を失ってしまいますし、見えると思っている目も、実はとても不確かなものです。
目の錯覚や見間違いは日常茶飯事です。目は心の窓、心にあるものを見ているのでしょう。不安な心は怪しいものを見るのです。
イエスさまは「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をかけてくださいました。
今、私たちの困難な時にも、静まるならみことばを思い起こさせてくださり、元気づけてくださいます。
「平安があるように。」とお声をかけてくださるのです。私たちはイエスさまによって、落ち着きを取り戻すことが出来ます。
イエスさまのお言葉である聖書によって、誤りのない正しい判断に生きることが出来るのです。
風も雨もイエスさまが父なる神様とお造りになったものですから、それらは造り主であるイエスさまを知っており、主の命令に聞き従うのは当然なのです。
しかし、人が自分の造り主を悟ることがないのは罪によるのです。イエスさまのあがないがなければ、造り主を知らぬままに滅びて行くものです。これは本当になんと憐れなことかと思います。
この時のお弟子の心は鈍いものでした。パンの奇跡を経験していても、なを平安を得ることはなく簡単にイエスさまを見失ってしまうような者だったからです。
イエスさまに出会うと私たちには、生まれてから今まで、かって見たことも聞いたこともないないような事が起こるようになります。
でも、その時に霊の目や心が開かれていないと、パリサイ人のように、今見たこと、目の前で起こったことなども、色々な理屈を並べて打ち消してしまい、信仰には結びつかず救いを頂くことができないのです。
イエスさまは最高の教師ですから、私たちの必要をご存じです。いつもイエスさまと一緒に居たお弟子たちには、助け主である聖霊をおくって下さり、彼らは世にイエスさまを伝える人となり、殉教するまでの良い働きをすることができました。
私たちがイエスさまといつも共に居て、みことばに信頼するとき、私たちには思ってもみないことが出来るようになるのです。
世の風や波を見ていると恐れが心を占めます。
イエスさまの「来なさい」というみことばによって歩むなら、水の上を歩くように主の備えの中を歩むことができます。
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