天瀬ひみかのブログ 『不思議の国のAmase』 AMaSe IN WONDeRLaND

僕たちの旅、ここではないどこか、幸福な場所へ。

「善悪の知識の樹」の秘密

2014-11-15 20:10:59 | 日記

真実を理解するために重要なのは、いつでも元型である。であるからには、私たちは常にこの元型を求め、探り、そして理解しなければならない。正しき元型は神のものであり、また神から発し、唯一の神とその救いの元に帰るが、悪しき元型は悪魔のものであり、また悪魔から発し、悪魔たちとその滅びの元に帰る。それらの善き元型のすべては善の原理であって実体であり、逆に悪しき元型のすべては悪の原理であり幻影である。この両者の間には、二つを隔てる水鏡と深淵が大いなる帳として置かれている。ここから私たち人間の表層と深層、意識と無意識、すなわち矛盾とパラドックスの全体と部分が生じる。そしてそこに映し出され、あるいは沈みゆく二つの言語、ないし思念が、すべての人に不可避なカルマをなし、また各々の人をコードする二種の力、すなわち光と闇のコードとなる。そしてその善と悪という二なるもののそれぞれが、個々それぞれについての四つのPを持つ。これによって合計八つの道が、私たちの世界内における生命とその日々の生活における選択の道に生じる。これが、善悪の知識の樹と呼ばれるものの秘密である。

アリスの冒険が意味するもの - 地下の国と鏡の国、その間における

2014-11-15 05:18:48 | 日記



 アリスのひとつの冒険とは、1から360をへめぐるエネルギーのコードの冒険である。

そのアリスの冒険は、アリスのものであったり逆に他の人のものでもあり得る各々の人に個別の特異な体験であるという特徴を備えながら、その各々がまた同時にすべての他者が体験する意味を無数の魔術的な力線が表面と深層を横断するような仕方で相互に連結しているという意味では全体的なものでもある。
実際のところ、アリスとはルイス・キャロルという召喚者によってアリスの内から喚起された魔術的分身であったことを私たちはまず最初に思い出しておこう。しかし、そのことはその分身が、アリス自身とはまったく無縁の人工的な創作物であるということを決して意味しはしない。それどころか、或る存在の真の本質(Ath)は、つねに瞬間的で奇跡的な魔法、あるいは、用意周到に企図された魔術的召喚の儀式によってのみ自らを顕現し、かつその力は現実世界において可能なものとなるのである。

 偶然の魔術師ルイス・キャロルによって喚び出されたそのようなアリスの分身=少女アリスの地下の国での冒険は、無意識の深層への旅であり、孤独なカルマ的1(海、深淵)についての神秘的で魔術的な対峙である。同様に、アリスの鏡の国での冒険は、意識の表層への旅であり、自己への同一化と他者への自己同一化を通じて自己と他者とを鏡の中で無限増殖させる多産的で多種多様な360(鏡)についての神秘的で魔術的な対峙である。1から始まる地下の国=深層意識の厚みは、時間内を前進することにより、360への距離を縮めるごとに漸進的にどんどん鏡の国=表層意識の薄さへと近づいてゆく。
この限りにおいて、歴史的、クロノス的なる時間が結果的にわれわれに提示し証明することになるのは、「すべての厚みは薄い」というパラドックスである。

それゆえ、他ならぬこのパラドックスのせいで、われわれにはいかなる深遠な哲学的、論理的、科学的、統計的思索も、深い価値のある学術的、芸術的探求も、意味のある日常的、個別的、集団的努力も、すべて不可能になっている。人間の時間=世界の歴史はただひたすら自動的に黙々とそれを証明するのだ。人がその歴史の大いなる力、人間を専制的に支配する暴力としてのアカシックの時間がわれわれに与える不可逆的体験とそれがわれわれに与える無数の心的外傷を乗り越えるには、360の鏡の向こう、1の無意識の海のさらに底の底である、底が底を突き抜け、そこがもはや底ではなく外であり表となるような(つまり、アルトーが「裏返しで踊る人間」と書いたような)絶対の外部における世界の転倒を自らの内に宿る宇宙的なる野生の魂が実現しない限りは、鏡と海、つまりその深淵とそれを覆うものは、われわれにとって永遠に勝ち目の無い魔物であり、その呪いであり続けるだろう。
 
 アリスの冒険、あるいは調査、ないし実験は、この鏡と海、畔と深淵についてのものであり、だからアリスは人に忘却された野生の魂がそれが水を飲みに赴く霊的なる泉の淵のぎりぎりのところで、その淵を満たす水鏡が、少女とそこに寄り添うようにして時を超えてきたネオテニーの動物たちにだけもたらす特別の魔力である夢見、あるいは、白昼夢という魔法を使って鏡の現前性の背後にある未知の深み、もうひとつのパラドックスである「すべての薄みは厚い」という命題に侵入するのである。
また、アリスはそのひとつの冒険の中で、野生の魂が自らに隠し持つ魔術的分身の力能によって、言い換えるなら、夢見の力がこの分身に授けるアイオーンの時間への星幽体投射の可能化によって、同時的かつ共時的に、深層、すなわち、われわれの意識の根底に秘められた意識の起源としての海にも侵入する。
これらはそもそも論理的で理性的な旅ではなく、伝統的に魔術の世界で使い魔と呼ばれるような魔法動物を想起させる黒ネコや白ウサギ、また、異界への入門鍵である金の鍵や召喚文の役をなすジャバウォックの詩やらが示唆するように、人に考えうる限り最も前衛的で、最もナンセンスで、言葉の真の意味において最もオカルト的な冒険、子供の好むような言葉でいうなら、まさにキャロルが題したように『不思議の国の冒険』なのである。

 こうして異界に侵入したアリスは、偽りの表層と贋の深層によって絶えざる幻惑の試練を受けるが、彼女は決してそれに耽溺して長く留まったり、それに屈して延々と捕まり続けることがない。
アリスの野生の勘は、彼女をしてあらゆる異界のかどわかしに抵抗させ、その足をさらなる鏡の彼方、海の涯てへと、可能な限り素早く、強気なままに前進させる。そしてアリスはクロノス的時間の表面を少女の冷淡さで凍らせ、その上をアイオーンのように滑りながら、そこでアリスが見せる様々な挙動は図らずも魔法の儀式的な所作となって360の彼方と1の最涯の手前に潜む諸々の閾の住人たちを次々と喚び出しては、それらに異界の暗号(コード)を語らせるのだ。

 こうして諸コードがそのナンセンスな言説を順々にアリスに対して語り継いでは、自らは意図せぬ自白としてのその言説が重ねられる度毎にコードのナンセンスさがより一層白日になっていくその過程で、それと伴走するようにすべての地下の厚みが表面の薄みに、鏡の薄みが深淵の深みへと変貌していく中で、アリス自身は360と1のあいだにある厚くもなく薄くもなく、また同時に厚みであり薄みでもあるような〈或る地点〉、〈或る極限〉へと一人接近していく。それは鏡と海のあわいに遠ざかりゆく真の生命の無限消失点、われわれの論理的科学的認識による接近を拒む異世界の始めと終わりを繋ぐ見えない場にして有形無形の万物のコーラ、360と1の背後に隠れたる0、真の啓明の、コードされた夢見とは別の夢見への、永遠の少女(動物)への目覚めの0である。