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『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告 (10/12)夏目語の「軽薄才子」

2024-05-06 23:12:57 | 評論

   『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告

(10/12)夏目語の「軽薄才子」

知識人は二種類いる。明るい知識人と暗い知識人だ。明るい知識人は自惚れる。暗い知識人は憂鬱だ。

 

彼は自己の幸福のために、どうかして翩々(へんぺん)たる軽薄才子になりたいと心(しん)から神に念じているのである。

(夏目漱石『彼岸過迄』「松本の話」一)

 

語り手は松本。「彼」は市蔵。「神」は正体不明。

私は何度も〈軽薄才子〉という言葉を使ってきた。だが、この言葉は怪しい。

 

態度・行動が軽々しい、上っ面だけの人間。うわべだけ調子を合わせることで、世間をうまく渡っていく人。また、自分の権勢利益のためにうわべだけ調子を合わす、抜け目のない人。

(『大修館四字熟語辞典』「軽薄才子」)

 

 驚くべきことに、この辞書は、例として、先に挙げた『彼岸過迄』の一文を挙げている。困ったことだ。

語り手の松本は「軽薄才子」を普通の意味では用いていない。ただし、これはNの造語かもしれない。そして、辞書の意味は『彼岸過迄』の誤読によって生まれたのかもしれない。

 

① ひるがえるさま。軽く飛びあがるさま。

② かるがるしいさま。

③ 才気のすぐれているさま。

(『広辞苑』「翩々」)

 

松本は、②のマイナスの価値を含みつつ、これを③のプラスの価値に転倒しているのだ。

先の引用文の前を読もう。

 

外にある物を頭へ運び込むために眼(め)を使う代りに、頭で外にある物を眺(なが)める心持で眼を使うようにしなければならない。天下にたった一つで好いから、自分の心を奪い取るような偉いものか、美く(ママ)しいものか、優しいものか、を見出(みいだ)さなければならない。一口に云えば、もっと浮気(うわき)にならなければならない。市蔵は始(ママ)め浮気を軽蔑(けいべつ)して懸った。今はその浮気を渇望している。

(夏目漱石『彼岸過迄』「松本の話」一)

 

そして、「彼は自己の幸福のために」と続く。

「軽薄才子」は、市蔵の妄想的「嫉妬心」(『彼岸過迄』「須永の話」十七)の対象である高木を素材にして、優美に作り替えた理想像だろう。高木は「自由に遠慮なく、しかも或程度の品格を落す危険なしに己を取り扱か(ママ)う術を心得ていた」(『彼岸過迄』「須永の話」十六)という。

「軽薄才子」は、普通の意味では〈軽蔑に値するチャラ男〉なのだが、松本的には〈憂鬱を解消し得た達人〉といった評価もできるわけだ。皮肉ではあるが、皮肉によってしか語れない心情を、作者は「軽薄才子」という言葉によって表現しようとしているのだろう。要するに、夏目語だ。後の「則天去私」に通じるか。〔1142 ありすぎる主題夏目漱石を読むという虚栄 1140 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕参照。

ちなみに「自己の幸福のために」という言葉は、『私の個人主義』に出ている。〔5541 「自我とか自覚とか」夏目漱石を読むという虚栄 5540 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕と〔夏目漱石を読むという虚栄~第二部と第三部の間(12/12)「公平の眼」夏目漱石を読むという虚栄 ~第二部と第三部の間 (12/12)「公平の眼」 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕参照。

Nの考えでは、素晴らしい社会の成員は「軽薄才子」でなければならないのかもしれない。私の考えでは……いや、夏目語を用いてものを考えることはできない。N本人にさえできなかったはずだ。

とにかく、ややこしい。だから、私はこの言葉を使わないことにする。代りに〈知識人〉を用いる。ただし、この言葉の意味も平明ではない。

(10/12終)


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