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『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告 (12/12)知識人は誤読する

2024-05-09 00:36:30 | 評論
  

『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告

(12/12)知識人は誤読する

小説の場合、知識人作家が拵えるのは、寓話とか訓話などだ。社会小説とか教養小説とか。成功すれば、明るい知識人小説だ。役に立つこともある。イソップとかゾラとか。でも、小賢しい。一方、失敗した暗い知識人文学は何の役にも立たない。その典型が『こころ』だ。SやKは暗い知識人だが、そのことが欠点なのではない。彼らがどのように描かれているか。このことが問題なのだ。作者は、彼らに同情しているようだ。だから、作者は暗い知識人だ。

『こころ』の意味が明瞭だったら、『こころ』は、どれほど陰鬱であっても、『吾輩は猫である』のようなお笑いに終わったはずだ。Sは『吾輩は猫である』の苦沙弥と同様の奇人なのだ。Sの葬式などの場面が描かれていないのは、作者が〈Sの物語〉を悲劇として完成させられなかったせいだ。代りにKが死ぬ。ただし、自殺の動機は不明だ。猫のワガハイが苦沙弥の代りに事故で死ぬのに似ている。同工異曲。作者は〈Kの物語〉を構想できなかった。この物語の原形は〈金之助の物語〉だろう。〔1452 読めない『Kの手記』夏目漱石を読むという虚栄 1450 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕参照。

知識人は『こころ』を悲劇のように誤読する。知識人は笑いものにされたくないから、意味不明なのを幽遠とか超俗などと誤読するわけだ。そして、奇人Nを天才として担ぐ。

生兵法は大怪我の基。大怪我をせずに済んでいるのが明るい知識人だ。大怪我をして当然なのに、「この不可思議な私というもの」(下五十六)などと粋がっているのが暗い知識人だ。

もう、いいかな。いや、駄目だろうな。

〈貴様だって知識人だろう〉ってか? だったらどうだってンだよ。〈知識人は相身互い〉ってか? 「いやしくも公平の眼を具し正義の観念を有つ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければ済まん事だと私は信じて疑わないのです」(夏目漱石『私の個人主義』)ってか? 〔『夏目漱石を読むという虚栄~第二部と第三部の間(12/12 「公平の眼」夏目漱石を読むという虚栄 ~第二部と第三部の間 (12/12)「公平の眼」 - ヒルネボウ (goo.ne.jp))』参照。

私の頭の中に知識人どもが巣食っていて、ことあるごとにいちゃもんをつけてくる。そいつらを排除したい。彼らを無視したい。無視できるようになりたい。そうなるために、もうしばらく夏目批判を続ける。

Sのような、普通人にとっていてもいなくてもどうでもいいような知識人の「倫理上の考」(下二)なんか、どうでもいいのだ。どうでもよくないのは、Sが小説の登場人物だからだ。『こころ』を理解するためには、Sの「倫理上の考」を知る必要がある。私はそう思う。知るだけでは足りず、理解する必要があると思う。さらに評価する必要もあるはずだ。ところが、私にはSの「倫理上の考」なるものを知ることができない。だから、当然、それを理解することはできないし、評価することもできない。

「遺書」つまりSの体験の「叙述」(下五十六)は、難解なのではない。知識として受容できないのだ。意味不明だから。

(12/12終)


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