快談爺流離日記

思いの儘に記す自然を好み手近の被写体を撮り歩く暇爺。

辰年も後一日

2012年12月30日 13時41分09秒 | 日々の出来事
今日はお墓の掃除とお花を供える予定でしたが、生憎の雨でしたので明日に延期しました、
押し迫って予定変更を余儀なくするのは残る時間が少なく焦ります、
明日は忙しくなるので今日でブログを終了します、
皆さんには今年一年ブログにて懇意にしていただき有難うございました、
新しい年も本年同様よろしくお願いします。

画が無いのは寂しいものですので撮り貯めた画で失礼します。

1画は、フローラルガーデンの温室のサボテン、

2画は、先日撮ってきた南京はぜの白い実、

3画は、鵜の編隊飛行、

4画は、鵜が羽を広げていた、

辰年も後一日の画像

辰年も後一日の画像

辰年も後一日の画像

辰年も後一日の画像



於大のみちⅡ

2012年12月29日 15時42分34秒 | 日々の出来事
12月26日の続き於大のみちの物語です、
1532年(天文元年)於大5歳の時に母於富は忠政に離婚され岡崎城主の清康と再婚する、
1541年(天文10年)於大14歳にて清康の跡を継いだ岡崎の松平広忠(16歳)に嫁ぎ・・・
母子ともに政略に利用され政略結婚させられた・・・戦国時代は女子を人質にする行為が罷り通っていた・・・、
其のため於大は波乱万丈の人生であった。

1画は、1538年(天文2年)於大11歳
緒川を去って刈谷城に移った於大は、水野貞守を始め祖先の墓がある乾坤院へ土地を永代寄進しました、

2画は、1541年(天文10年)於大14歳
清康の跡を継いだ岡崎の松平広忠は駿府の今川氏に属し、緒川・刈谷城主水野忠政と結ぼうと考え、
16歳の広忠に嫁ぎました、

3画は、1542年(天文11年)於大15歳
母於富も岡崎に嫁いでおり母子ともに政略に利用されたのですがこの年12月26日於大は玉のような竹千代(家康)を産みました、

4画は、1543年(天文12年)於大16歳
幸福な日々は短く、父忠政が病死相続した兄信元は四方の情勢をみて今川、松平氏を敵として尾張の織田信秀と手を結んで仕舞いました、

5画は、大四代緒川城主水野忠政、於大の父で・・・竹千代(徳川家康の)外祖父、

於大のみちⅡの画像

於大のみちⅡの画像

於大のみちⅡの画像

於大のみちⅡの画像

於大のみちⅡの画像



ダイニング・キッチンの掃除

2012年12月28日 17時47分13秒 | 日々の出来事
今日も冷えていましたね後三日で師走も終りですね、
年末の掃除第二弾・・・私の分担はレンジ周りと換気扇の掃除を任命されて始めましたが・・・
頑固な汚れに「レンジまわりルックルック洗剤」とぬるま湯を併用して、洗い始めたが一筋縄では落ちてくれない・・・、

テレビのコマーシャルでスチームクリーナーの事を思い出して、ホームセンターでスチームクリーナーを買い求めて来ました、
矢っ張り道具ですね強烈な蒸気で頑固な汚れも浮き上がって来て、手軽にレンジ・換気扇の汚れが取れスチームクリーナーの威力に感心した。

1画は、スチームクリーナーのパッケージ、

2画は、スチームクリーナー本体、

ダイニング・キッチンの掃除の画像

ダイニング・キッチンの掃除の画像



今朝は寒かった

2012年12月27日 15時07分27秒 | 公園・風景・その他
鉢の受け皿に水が溜まっていて薄氷が張っていた、久しぶりに猿渡川まで出かけてみた、
干潮であろう水は少なく干潟が多く見えていた、冬の鳥達も数が増えてきている、
猿渡川も河川の拡幅工事が終わって川幅が従来の二倍程になって水鳥等を撮そうとファインダーを覗くと対岸えと逃げさっていってしまう、
長いレンズで無いと大きく切り取りにくい、
水嵩が少なく淀みに多くの鯉が、かたまって犇めいて居るようだ。

1画は、カモメが翔んだ、
カモメが猿渡川にもやって来た、

2画は、カワラヒワが桜の木に止まっていた、

3画は、水嵩が少なく淀みに多くの鯉が犇めき合っているよだ、
緋鯉も混ざっている、「50cm以上はある」

4画は、ゴカイ鳥(採り)、干潟を起こしてゴカイを掘る人、

5画は、干潟に浮き出ている切り竹が積み重ねてある此れくらいの嵩のものが6箇所あった、
青竹の油抜きでしょうか?、

今朝は寒かったの画像

今朝は寒かったの画像

今朝は寒かったの画像

今朝は寒かったの画像

今朝は寒かったの画像



於大のみち

2012年12月26日 10時52分44秒 | 公園・風景・その他
猫親父さんがマンホールの蓋の収集をやって見えるのを見て思い出した、
マンホールの蓋では無いが於大のみち(明徳寺川)2kmの左岸の道路にマンホール型の石板が敷かれ於大お方と水野家に関する記述が記されていた、
明徳寺川の左岸2kmに46個の石板が設置してあった、右岸にも於大のみちや道路周辺に有る施設などに関する歴史が記述されていた。

1画は、桜の木の葉も落て枯れ木の様な於大のみち、(画の左の道路に白い円く見えるのが石板)

2画は、石板 於大1歳の時
1528年(享禄元年) 於大1歳
第四代緒川城主水野忠政の娘として生まれる、母は華陽院於富の方というきれいなお方でした。

3画は、石板 於大5歳の時
1532年(享禄元年) 於大5歳
三河のほとんどを我がものにした岡崎城主松平清康から求婚された母於富は忠政に離縁されて清康と再婚しました。

4画は、石板 於大6歳の時
1533年(天文2年) 於大6歳
忠政は西三河へ勢力を伸ばそうと考え、緒川の対岸刈谷に立派な城を築いて此処を水野氏の本拠地として家臣団ともに移りました。

5画は、本年4月のに400本の八重桜の満開時、

於大のみちの画像

於大のみちの画像

於大のみちの画像

於大のみちの画像

於大のみちの画像