エゾ中村のブログ

「藤圭子」から「現代医学の功罪」まで、思いの丈を綴ります。 ・・・ From 北海道 ・・・

明治を嫌った『松浦 武四郎』

2021-09-04 08:28:56 | “アイヌ文化”関連
2018年、“蝦夷地”が「北海道」に改名され150年になります。

1971年、札幌市厚別区野幌に 北海道開拓記念館(現・北海道博物館)が 創設されています。 広大な“野幌森林公園”には、北海道開拓に関する<当時の役所や民家>・<明治から昭和時代の生活用品等を展示する記念館>・<開拓100年を示す高さ100mの記念塔> そこには、蝦夷地が元々日本固有の領土だった事を、何の躊躇いもなく誇示していた様に見えました。(私は 40年ほど前に入場) 不思議な事に、150年の節目では様相を一転しました。 領土とか開拓など一切 強調せず、蝦夷地から北海道に改名した事をアピールし、先住民族のアイヌ文化を数多く紹介する方向に転換した様です。 何故なのか? 東京オリンピックを前に「先住民族の権利に関する国連宣言」(先住民族が収奪された土地や資源の原状回復と補償)を、軽視できなくなったからです!

◎アイヌ人から慕われた『松浦 武四郎』

 
「大日本沿海興地全図」を作成した『伊能 忠敬』(1745~1818年)は、派遣役人として蝦夷地に足を運んだ第一人者と言われています。 その『伊能 忠敬』が亡くなった年に生まれたのが、後に“蝦夷地を北海道?”と改名した『松浦 武四郎』(1818~1888年)です。 伊勢国(現・三重県)出身で、若い頃から日本中を渡り歩く旅人(廻国僧&随筆家)だった様です。 幕末(28歳頃)、蝦夷地侵略を企てるロシアの動向を探るべく、単独で 3度 蝦夷地に渡り、アイヌ人との交流を深めたそうです。 それを知った徳川幕府は、『松浦 武四郎』に蝦夷地探索を命じ、先住民族・アイヌ人の調査を依頼した様です。 時代が “江戸”から“明治”に変わって以降も、政府は蝦夷地&アイヌ人に詳しい『松浦』を、“開拓判官”に命じた。 しかし 合計 6度、蝦夷地を訪れた『松浦』は、“明治政府”の思惑とは全く違う立場だった様です。 アイヌ人と友好関係と共存共栄を、独自の判断で模索したそうです。 
 
私は「北海道」に生まれ育った三代目です。 日本人として、身勝手な事を言えない立場にいます。 しかし、少数民族に対する“虐め”・“虐待”・“差別”を目撃したからこそ、あえて声を上げるのです。 日本人に優しく、アイヌ人に厳しい“土人保護法”の悪しき実態の事です。(1997年、“アイヌ新法”に改名) 友人であり知人である郷土のアイヌ人は、生まれながらに“プライド(尊厳)”を、政府に奪われたのです。 日本人に居場所を奪われたアイヌ人は、隠れる様に本州や外国に新天地を求めたのが事実です。 国勢調査で、北海道在住のアイヌ人は、13,000人程度と発表されています。 とんでもない 数値です。 全日本アイヌ協会の調査では、血族の総数を 20万人以上と試算しています。 それを政府は、アイヌ民族の日本人同化政策が、成功したと高を括っています。 そんな人権侵害は、世界の潮流に反する暴挙です。 思うに、『松浦 武四郎』のアイヌ人愛とは、全く別物です!            
 
蝦夷地の先住民族・アイヌ人は、和人(日本人)と“縄文時代”から交流があった様です。 その証は、純粋な和犬・アイヌ犬の存在です。 既に 縄文~弥生時代に、津軽海峡を渡って蝦夷地に運ばれ、優秀な番犬として育ったのです。 それを 明治政府は、強引に“北海道犬”と改名したのですから呆れます。 『松浦 武四郎』は、“蝦夷地”を「北海道」と改名した人物と言われています。 しかし 『松浦』は、「北加伊道」と命名したかったのです。 なぜ “加伊(カイ)”に拘ったのか? カイ=この地で生まれた者! 先住民族・アイヌの人権を尊重したからです。 その考え方は、明治政府の思惑に反するものでした。(いずれアイヌ人は日本に順応させ同化する) そんな政策を知った『松浦』は、蝦夷地が「北海道」と改名された時点で、開拓判官の役職と数々の名誉を辞退し、失意のまま「北海道」を去ったそうです。 おそらく、“軍国主義”に舵を切った明治政府に『松浦』は、辞職によって半旗を掲げたと思います。

『松浦 武四郎』は、決して“蝦夷地”を「北海道」と改名した人物ではありません。 アイヌ民族の人権・名誉を、ひとり尊重した偉人です。

◎『松浦 武四郎』に代わって開発判官に就任した『島 義勇』                    
(北海道神宮に建つ『島』の銅像)

『島 義勇』は、札幌の都市開発に関わり「北海道開拓の父」と呼ばれる人物です。 後に、明治政府によって処刑されています。 その経緯は、後日 報告します。

アイヌ人と『伊達 邦成』

2021-08-26 08:06:11 | “アイヌ文化”関連

どうして 福島県北海道に、同じ名の 伊達市 があるのか? 理由は、姉妹都市だからです! ただし、歴史がある福島県が本家で、新しい北海道が分家と言う訳でもありません。

北海道・南西部の 伊達市 は、福島県の 伊達市 と深い関係があります。 仙台藩・亘理の領主「伊達 邦成」(「伊達 政宗」の子孫)は、戊辰戦争で新・政府軍が勝利した後、領地(現・宮城県&福島県)を奪われ一族郎党 流浪の民となる運命を辿りました。 仙台藩・亘理藩が解体され 農民になるか漁民なるか、選択を余儀なくされたのです。 「伊達 邦成」は 明治政府に懇願し、家臣(250人)その家族(3000人)を連ね 蝦夷地開拓 を願い 受け入れられたそうです。 そこで辿り着いたのが、現在の北海道・南西部 伊達市(旧・伊達紋別町)でした。 今でこそ、農業 や 漁業 に適した豊かな土地ですが、当時は森林が広がる荒地だったのは想像できます。 そこで刀(武士の魂)をスコップや鍬に持ち換えた武士達が、汗水垂らし開墾に挑んだのですから、並大抵の苦労ではなかったと思います!

◎蝦夷地開拓の祖「伊達 邦成」

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(伊達市カルチャーセンターに建つ銅像)                  

「伊達 邦成」は 先住民族・アイヌ人に対し、共存共栄の道を選んだそうです。 新参者として「信義を旨とし礼儀を重んじること」を、家臣達に徹底したと言われています。 それ故に トラブルも無く、地域に溶け込んだと思います。 それに反し 明治政府(主に屯田兵)は、力による侵略でアイヌ人に不信・不満を生んだのは確かです。 思うに、徳川幕府時代から貿易による交流があった仙台藩の移住者はアイヌ人と共存し、軍事を強化した明治政府は アイヌ人を 土人 の如く扱った。 「伊達 邦成」は、廃藩置県 や 平民籍編入 で力を失った後も、地域の発展に寄与し信頼と尊敬を受けた偉人です。 蝦夷地を北海道と改名し、強権を振るいアイヌ人を差別・虐待した 明治政府の態度とは、根本的に違います!

元々、明治維新を成し遂げた政府軍は、徳川幕府の家臣です。(全ての武士が 不平不満分子ではなかった筈です) 如何して 天皇 を招いた瞬間、平穏を嫌い 軍国主義 と言う狂気に走ったのか? その後の世界侵略(戦争)は、近代史における紛れもない事実です! 安易に「徳川幕府は良かった」と 言いません。 ただし、明治・大正・昭和(戦前)の「侵略の明け暮れ」は、冗談にも評価できません。 それ以上、「明治の亡霊が宿る」 強権だけが目立つ現政権を、手放しで称賛は出来ません。 日本が世界に誇る 平和憲法 が危うい。 一度 憲法を弄ると、瞬く間 軍国主義 が目覚めます!

◎毎年8月に行われる“伊達武者祭り”

◎仙台藩の「伊達 政宗」は、会津藩と直接繋がりはなかった様です。 会津藩は 混乱の幕末期「伊達 邦成」と手を組んだ事から、明治時代 伊達市(伊達紋別町)を名乗ったと思います。 今でも、江戸時代の風情が残る街です!

札幌開拓の父『島 義勇』

2021-08-22 08:11:04 | “アイヌ文化”関連
北海道開拓史において、蝦夷地 を知り尽くした 初代判官「松浦 武四朗」が、名実ともに知られています。 残念な事に「松浦」は、蝦夷地が北海道と改名されて間もなく、開拓使判官の職を辞して故郷の三重県に 無念の帰還となりました。 思うに、アイヌ民族を無視した明治政府の強権に、遣る瀬ない不満があったと思います。 それは、次期開拓使判官を就任した「島 義勇」(1822年生まれ)にしても、似た様な経緯があると思います。 
佐賀県出身の「島」は、藩主「鍋島 直正」の家臣として実力を発揮し、蝦夷地や樺太(現・サハリン)の探検を担う任務に就いています。 その功績を明治政府が認め、北海道開拓使判官を「鍋島」の後押しもあって任命した様です。 果たして「島」の就任が適任だったのか、蝦夷地(札幌)の開拓に少々疑問が湧きます! 功績 と言うには、実績が伴っていないと感じるのです。

◎「北海道神宮」に建てられた「島 義勇」の銅像

島義勇」は、開拓判官に就任し真っ先に訪れたのが、札幌市街を見下ろせる  円山 および 宮の森 地区だった様です。 現 北海道神宮 の高台に立ち、開拓の 青写真 を模索したそうです。 京都の街並みを参考に、札幌 を 日本一の都市にしたいと構想したのです。 無謀だったのかも知れません。 極寒の状況下で、札幌の開拓事業は困難を極めた。 一年分の予算(約7万両)を、4ヶ月で使い果たしたのです。 疑問を持った明治政府から、即座に解任を言い渡されたのですから「島」の札幌開拓に些か疑念を抱きます。 僅か 4ヶ月で、開拓使判官を解任された。 それでも、蝦夷地開拓の先駆者・「北海道札幌開拓の父」と、呼ばれるのですから不思議です! 「島」の武勇伝(活躍)は、本物だったのか?

◎ 現在の「札幌市」の街並み


明治政府による 蝦夷地開拓 および 札幌開発 は、「松浦 武四郎」「鍋島 直正」「島 義勇」の尽力により、スタート を切ったと思います。 しかし 明治政府は、アイヌ民族 を無視したまま、放漫な開拓を続けます。 少なくとも「松浦」と「島」は、政府の強行に対し 半旗を掲げた 人物だと思います。 「松浦」は、北加伊道 の命名を譲らず 「島」は、札幌 をアイヌ語の “サツポロ”(意味:乾いた広い場所)と、地名に拘った事で両者の 蝦夷地 および アイヌ民族 に対する愛着を感じます! 旧幕府軍の二人と 明治政府の考え方が、大きく違っていたのか? それであれば、多少は納得できます。  

「島 義勇」は、開拓使判官を解任された後 佐賀県に戻り、若い仲間らと 佐賀の乱 を起こし、政治犯として逮捕されています。 首謀者として、裁判の上 打首 で処刑された。 「松浦」にしろ「島」にしろ、北海道開拓 に纏わる不可解な出来事が、明治初期に連続しています。 明治時代「軍国主義」が齎した 暴走 でしょうか? 蝦夷地(札幌)開拓は、明治政府の穿った思想(強権)が、あらゆる場面で窺えます!

『徳川 慶喜』 蝦夷への想い

2021-08-18 08:26:45 | “アイヌ文化”関連
***** 最後の将軍『徳川 慶喜』が 大政奉還の後“明治政府”に宛てた“嘆願書” *****

蝦夷地(現・北海道)は、最近まで徳川家が経営して来た地で、人口は極めて少ない未開地である。 この蝦夷地のうち、どこか徳川にお預け頂いて 家来たちを土着させたい。 そうなれば、不毛の地の開拓もでき、そのうえ 徳川の家来たちの生活も安定するするのではないか、お願い致したい」 (北海道開拓史より抜粋)

戊辰戦争で大敗した『徳川 慶喜』は、新政府軍(明治政府)に軟禁される中、旧幕府軍(家来達)の行く末を案じて嘆願書を書いています。 書状において、「蝦夷地は、徳川家が経営して来た地」と認めています。 その表現は、決して“領土”・“支配地”と言っていません。 寧ろ、“貿易の地”であり“共存・共栄の地”を強調していると思います。 そんな考え方が、富国強兵(軍国主義)を目指す明治政府の思惑と大きな隔たりがあった為、『徳川 慶喜』の嘆願は受け入れられなかった。 やはり、元将軍を支持する多くの家来を蝦夷地に集結するのに、明治政府は戸惑いがあったと思います。 反乱を恐れた明治政府は、『慶喜』と部下達に農地(静岡県)を与え、輸出向けの“日本茶”を生産させた様です!
                   
 ◎大政奉還を決断した「徳川 慶喜」
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それから150年、『徳川 慶喜』(1837~1913)の想いは実現したのか? 蝦夷の先住民族・アイヌ人との“共存・共栄”は果たせたのか? 結果は、真逆です! 現在 北海道のアイヌ人は13,000人に激減し、日本の領土に化しています! それでも、2020年の東京オリンピックの成功を願い“領土”の表現を一切封印し、“北海道命名150年”と“名付け親”を強調しています。 真実でしょうか? 世界に対する安直な“目くらまし”です! 『源 頼朝』の時代から 680年続いた“武家政権”を、安易に支持する訳ではありません。 しかし、明治以降の“軍国主義”やその思想を、「日本の夜明け」と称賛する事は出来ません!

徳川幕府は、蝦夷地の開拓に様々な布石を積んでいます。 決して、銃や大砲で侵略を進めたものではありません。

◎「伊能 忠敬」と「間宮 林蔵」の測量データにより作図された「伊能図」

 
① 『伊能 忠敬』(1745~1818) 蝦夷の地図作成。

② 『間宮 林蔵』(1780~1844) 樺太(現・サハリン)探索 間宮海峡の命名。

③ 『松浦 武四郎』(1818~1888) 蝦夷地の日本語訳 「北海道」命名?
 *「松浦」は、アイヌ民族の意向を反映し「北加伊道」を主張したそうです。

『徳川 家康』の再来と言われた策士『徳川 慶喜』は、これほどの調査や実績を重ねたにも拘らず、蝦夷地に武力侵略をしなかった。 そこには、先住民族・アイヌ人との“共存・共栄”を模索していたからだと思います。 しかし 明治政府を始めとする現政府は、先住民族の処遇に対し 余りにも冷酷です。 “アイヌ人”も“琉球人”も、つい最近まで“土人”と蔑んで来たのですから? 近隣諸国や世界から、日本の政治は遅れていると揶揄されるのは当然です! 「人民による人民の為の政治」 日本の民主主義は、欧米に比べ少なくとも100年遅れているのは、偽りの無い事実です。 

『徳川 慶喜』が、明治政府に嘆願した蝦夷地開拓の願いが実現していれば、現在の北海道の状況もアイヌ民族の処遇も、大きく変わっていたと思います。

「縄文遺跡」と「アイヌ新法」

2021-07-03 08:14:14 | “アイヌ文化”関連
今月「北海道・北東北の縄文遺跡群」が、ユネスコ世界遺産で 文化登録 される事になります。 不思議な事に、北海道・南部から南西部にかけて「縄文文化」と「アイヌ文化」が、様々な点で合致します。 今後、ユネスコ と 国連 が 歴史探究すると、日本にとって 不都合な真実 が、炙り場されるかも知れません! 例えば 北海道(蝦夷)は、弥生時代の邪馬台国 と違う文化で成り立っているのではないか? 

政府は、北海道の  先住民族 を明記した「アイヌ新法」を制定しました。 道南の白老町に「国立アイヌ民族博物館・ウポポイ」を建設し、アイヌ人に対する権利を 法律上認めた様です。 しかし、単純に受け入れられない事情があります。 北海道アイヌ協会幹部の話によると「政府は 2020年の東京五輪・パラリンピックに向け、人権を重視する国際世論を意識して アイヌ政策を充実させようとして来た。今回が 基本法 に終われば、具体策の実現は遠のくのではないか」と反発しています。 やはり、政府の思惑には裏がある様です。 世界中から注目される 東京オリンピック・パラリンピック に向けた 演出(パフォーマンス)だとしたら「アイヌ新法」は、理念を謳うだけで 骨抜きの内容になるのではないか?

◎「国立アイヌ民族博物館・ウポポイ」


国連は、2007年「先住民族の権利に関する国連宣言」を採択しています。 そこで、日本政府は少々動きました。 明治から続いた「土人保護法」の撤廃を決めたのです。 その結果、アイヌ民族への 生活・教育 を、貸付制度 で支援すると言う形を取った様です。 新たに設けた「アイヌ新法」では、土人保護法 に匹敵する支援は 困難(予算がない)と 見通しを示しています。 要するに 法案は作ったが「何もしない」と宣言しているのです。 不可解です。 「絵に描いた餅」 そんな法案が、果たしてまかり通るのか? 国連は「先住民族が収奪された土地や資源の現状回復と補償を受ける権利」を、世界に宣言し採択したのです。 「アイヌ新法」は、東京オリンピック・パラリンピック を目的とした、安易な 目くらまし だとしたら 最悪の法案です!

世界には、数十か国で 先住民族問題 があります。 アメリカ合衆国の インディアン および イヌイット・オーストラリアの アボリジニ・南米の インディオ・など どの国でも、問題解決の糸口は 国連人権委員会 の勧告によって、双方が歩み寄るのが通常です。 もしも こじれると、独立戦争 に発展する場合もあるのです。 それを防ぐのが、国連の役割です。 「どうでしょうか」 日本は、国連決議を尊重する国でしょうか? 国連への出資額は、アメリカ合衆国に次ぐ 世界第二位 です。 「金は出すが 勧告には従わない」 それでは、尊敬に値する 民主主義国 とは言えません!

もう一度「アイヌ新法」に戻ります。 現在 北海道に住むアイヌ人は、おおよそ 1,3万です。(自己申告) しかし、日本全国に 20万人以上のアイヌ民族が、身を隠すが如く分散しています。 なぜなら、北海道に居る限り 謂れのない差別が 日常茶飯事だからです。 そんな方々が、正々堂々 生まれ故郷で暮らせる道筋をつくるのが、人権(権利)を重視した政治の道筋ではないでしょうか? 是非とも、アイヌの人権を重視する社会である事を、道民の一人として望みます!

◎ 長い歴史を持つ “アイヌ文化”


話は変わりますが「沖縄基地問題」を紐解きます。 沖縄県は、北海道より複雑です。 蝦夷 が北海道と(明治2年)改名され、琉球王国 から沖縄県に併合されたのが 10年後(明治12年)でした。 明治政府の思惑は分かりませんが、要するに 植民地化 です。 徳川幕府の戒めを破り、国土を広める奇策に出たものと思います。 その結果、朝鮮・中国・東南アジア諸国 を支配下に置いたのは、近代史における事実です。 日本における軍国主義は、第二次世界大戦で還付なく消え去った筈です。 しかし 戦後 76数年、過去の亡霊が 今になって蠢(うごめ)いています。 明治(軍国主義)復活を願う 極右 政治家 の思惑の中で! 

◎「縄文時代・弥生時代」の 住居跡


ユネスコ世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡」が、今月 登録されます。 この節目で、アイヌ文化 縄文文化 を 改めて検証しては 如何でしょうか? 勿論、北東北の 縄文遺跡群 も同じです!