エゾ中村のブログ

「藤圭子」から「現代医学の功罪」まで、思いの丈を綴ります。 ・・・ From 北海道 ・・・

『徳川 慶喜』 蝦夷への想い

2021-08-18 08:26:45 | “アイヌ文化”関連
***** 最後の将軍『徳川 慶喜』が 大政奉還の後“明治政府”に宛てた“嘆願書” *****

蝦夷地(現・北海道)は、最近まで徳川家が経営して来た地で、人口は極めて少ない未開地である。 この蝦夷地のうち、どこか徳川にお預け頂いて 家来たちを土着させたい。 そうなれば、不毛の地の開拓もでき、そのうえ 徳川の家来たちの生活も安定するするのではないか、お願い致したい」 (北海道開拓史より抜粋)

戊辰戦争で大敗した『徳川 慶喜』は、新政府軍(明治政府)に軟禁される中、旧幕府軍(家来達)の行く末を案じて嘆願書を書いています。 書状において、「蝦夷地は、徳川家が経営して来た地」と認めています。 その表現は、決して“領土”・“支配地”と言っていません。 寧ろ、“貿易の地”であり“共存・共栄の地”を強調していると思います。 そんな考え方が、富国強兵(軍国主義)を目指す明治政府の思惑と大きな隔たりがあった為、『徳川 慶喜』の嘆願は受け入れられなかった。 やはり、元将軍を支持する多くの家来を蝦夷地に集結するのに、明治政府は戸惑いがあったと思います。 反乱を恐れた明治政府は、『慶喜』と部下達に農地(静岡県)を与え、輸出向けの“日本茶”を生産させた様です!
                   
 ◎大政奉還を決断した「徳川 慶喜」
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それから150年、『徳川 慶喜』(1837~1913)の想いは実現したのか? 蝦夷の先住民族・アイヌ人との“共存・共栄”は果たせたのか? 結果は、真逆です! 現在 北海道のアイヌ人は13,000人に激減し、日本の領土に化しています! それでも、2020年の東京オリンピックの成功を願い“領土”の表現を一切封印し、“北海道命名150年”と“名付け親”を強調しています。 真実でしょうか? 世界に対する安直な“目くらまし”です! 『源 頼朝』の時代から 680年続いた“武家政権”を、安易に支持する訳ではありません。 しかし、明治以降の“軍国主義”やその思想を、「日本の夜明け」と称賛する事は出来ません!

徳川幕府は、蝦夷地の開拓に様々な布石を積んでいます。 決して、銃や大砲で侵略を進めたものではありません。

◎「伊能 忠敬」と「間宮 林蔵」の測量データにより作図された「伊能図」

 
① 『伊能 忠敬』(1745~1818) 蝦夷の地図作成。

② 『間宮 林蔵』(1780~1844) 樺太(現・サハリン)探索 間宮海峡の命名。

③ 『松浦 武四郎』(1818~1888) 蝦夷地の日本語訳 「北海道」命名?
 *「松浦」は、アイヌ民族の意向を反映し「北加伊道」を主張したそうです。

『徳川 家康』の再来と言われた策士『徳川 慶喜』は、これほどの調査や実績を重ねたにも拘らず、蝦夷地に武力侵略をしなかった。 そこには、先住民族・アイヌ人との“共存・共栄”を模索していたからだと思います。 しかし 明治政府を始めとする現政府は、先住民族の処遇に対し 余りにも冷酷です。 “アイヌ人”も“琉球人”も、つい最近まで“土人”と蔑んで来たのですから? 近隣諸国や世界から、日本の政治は遅れていると揶揄されるのは当然です! 「人民による人民の為の政治」 日本の民主主義は、欧米に比べ少なくとも100年遅れているのは、偽りの無い事実です。 

『徳川 慶喜』が、明治政府に嘆願した蝦夷地開拓の願いが実現していれば、現在の北海道の状況もアイヌ民族の処遇も、大きく変わっていたと思います。

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1 コメント

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徳川慶喜の思い (雨あがりのペイブメント)
2021-08-18 09:50:22
 【「北海道開拓使」による慶喜の想い】を初めて知りました。教科書や幕末から明治初期の歴史書の中でもなかなかお目にかかれない慶喜の「想い」を興味深く拝読させていただきました。
 「二心殿」というような、良くない視点で描かれた歴史書の中で、これは大切な資料だと思います。
  慶喜はもっと評価されても良い人物だと思います。勝者の側から見た歴史ではなく、敗者の側から見た歴史観を誰か書いてくれないかな。
  ありがとうございました。良い刺激になりました。

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