風邪が何故か長引いています
早く治りたいな。
真面目でながーーい話になっちゃうけど、ふと思うこと。
聴覚障害者が健常者の社会の中にいるのって
なかなか難しいもんだね。
大学一年のとき、
同じ学科で難聴(6級)の子Sがいて、すぐ意気投合した。
でも、グループ(Sの他、健常者2人含めて、4人)
の中で「声」での会話に限度を感じてしまって、
だんだんその中で笑えない自分に気づいて、
しまいには、そのグループの中にいるのが苦痛になってしまって、
そのグループから離れようとした。
そんなとき、Sから
「周りに合わせることも必要だと思うよ。
私も皆が思うほど聞こえてはいないし、作り笑いもしょっちゅうだよ。」
ってメールが来て、すごいショックだったのが
今でも印象に残っている。
結局、私はそのグループの中にはいられなくなって、
大学二年からノートテイクを機に仲良くなった
他の友達と過ごすようになった。
また大学一年のときと同じようなことがあるんじゃないかって不安は
何度も襲われたけど、ノートテイクをやっている分理解があって、
話しやすかった。
***
「周りに合わせる」のって
一回気づいてみると、
実はすごい大きな「自分への抑圧」なんじゃないかなって思う。
自分も中学までは、自分を「難聴」と思っていて、
周りに合わせるのが当たり前と思っていた。
高校の時、聾学校という声に苦しまされなかった世界に入って
その世界に慣れてた分、大学入学した時は
「声があるないだけで、こんなに違うなんて…」
中学のときは考えたことのない衝撃に襲われた。
そのときは、もう中学の頃ほど
「周りに合わせるのが当り前」っていう自分がいなくなっていたのだと思う。
でも、Sは、周りを優先するのが当たり前になっているんだよね。
周りの健常者にとっては、間違いなく
ある程度理解がないとついていけないっていう私よりも、
周りに合わせることのできるSの方が、
話しやすいって思うだろうな。
それでも、私は自分を抑圧してまで
健常者と話したいとは思えないけど。
***
S「聴力重いのって大変だよね」
私「でも、6級みたいに聞こえる人なのか聞こえない人なのか
立場が苦しいんじゃないの?」
S「…よく分かるね」
こんな会話も時々思い出す。
SはSなりの過ごし方があるんだろうし、
私は別に周りに合わせる事が悪いとは思っていない。
だけど、この会話でSも実は心のどこかで
「居場所」を求めているんじゃないか、って感じた。
***
まとまりないの内容になっちゃった。
なんでこんなことを今更思い出したかというと、
聴覚障害者には
自分を抑圧してまで周りに妥協するのが当たり前になっている考え方、
そして、
進んで周りに妥協しようと思わない考え方
の2種類に分かれちゃっているんだよね。
だから、健常者中心の社会は、
前者の方を好んで、
後者の考え方を理解しようとしてくれない
んじゃないかっていう不安が
どこかで感じている部分があるんだと思う。
このことに対して、健常者の中には、
「使い分ければいいと思うよ。
みんな誰だって自分を抑えるときがあるから。」
って言う人もいるけど、
聞こえなくて分からないこと対して
「使い分ける使い分けない」があるんだろうか?
まあ、今やるべきことを集中するのが先だから
今はあまり千思万考になっても仕方ないかなあ。