特定の宗教によって思想を統一し、アイデンティティの均一化をはかる時代は唐に終わっているが、この度のパンデミックでも、そうした単純な統一を生み出しそうにない。しかし新たな霊的進化を模索する為の経験をしている可能性はある。
自粛警察=歪んだ正義の排出もあるが、日本と異なる強毒性を示す国では、自分より地域の人たちを考慮した、ある種の自己犠牲を示す人たちもいたり、集団と個の在り方で特筆すべき人たちもいる。
これと霊的向上との関係性は不明だが、個々の物理的な死の意味を考える機会が増えたのは確かだ。裏返すなら生の意味を考える機会も増えたように思う。
さて、死を他界とも言うが、これは慣用句として使うだけかもしれないが、意外にも死の本質を述べているのかもしれない。
信条に依らず人がすべて他界できる、つまり物理法則から解放された異世界に移動する、と仮定した場合、その(能力?)の源は何であろうか?人自身の意志であろうか?
思考が現実を生み出す、と聞いたことはあるが、それはある種の誇張を含んでいる。人の創作活動では、最初に意志や目的と言った思考が先行するのは確かだが、意志自体が万能なのではない。その意志に沿った様々な外部的な協力を必要とする。それで、目的が達成することより、途中で挫折することの方が多いかもしれない。
まして自らの意志で、身体を物質的な構造から霊的な構造へと変化させることなど到底不可能なのではないだろうか?
そして、何よりも死の際に人は「さて霊界に行こう」などの意志を持つとは考えにくい。何度も通った店に行くのとは訳が違う、おそらく始めて?の経験であろうから、最後まで意識があったにしても「一体これからどうなるか...」ぐらいで、あくまでも受け身なのではなかろうか?たとえ霊界を信じる者であっても大差ないように思う。
取り留めのない連想ゲームのようではあるが、もう少し考察してみよう。
続く