終活のつもりで、整理をしていると、敬愛する元校長の手記が出てきた。以下抜粋。
『....年齢を重ね、経験も重ねると、物事の決断は早くなると考えていた。だが、私の場合は違っていた。最近は、言葉や文章の重み、決断の重みをズシリと感じる。物事の背景を知れば知るほど、世の中には、はっきりと言えないことが多いことに気づいた。単純に上下左右には分けられない、いや、分けない方が良いことが多いのだ。教育は早く決断し早く成果を出す人間を作り出すことだと思っていたが、昨今の事件や世情を観るに、それは違っていたように思う。今更遅いかも知れないが、今後は良い意味での優柔不断な人間を生み出すことに微力ながら貢献したい...』
久しぶりに再会したような感動があった。
確かに、人生は単純には決められないことが多いものだ。科学的な普遍性とは異なる分野は特にそうだ。
苦難や迷いの多い人生において、断言してもらったり、善悪を決めてもらえる心地よさも生じてくる。
依存(頼ること)が全て悪い訳ではない。国家に依存する事、親や友人や教育に依存する事、様々な情報、福祉サービスやインフラに依存することなどを否定しては生きていけない現実がある。
しかし問題は程度である。通常の生活に支障をきたすほど、過度に執着するなら、それは依存でなく、『依存症』と考えられる。
一見すると通常の生活者である場合でも、洗脳と関係があったり、人の心理や弱点と深く絡み合うので問題は階層になっており、おそらく自覚さえ無いかもしれない。
しかし、いかにも偉そうに思案する私をあの校長が観たら、
「それも人生...その人にとって何が幸せか、良いかなど他人には分からないものだよ」
と、一笑されそうだ。