今はその病院で脳外科部長をされ、学会でもこの病気の発表をしたりと活躍されているようです。
私がその後治って、社会復帰をし、独立し頑張って自営業を営んでいる事をとても喜んでくれています。
この病気は治っていく過程も大変でした。
退院しても、高知へ帰る力が無くて、3ヶ月姉の家でお世話になる事になりました。
落ちてしまった体力もさる事ながら、身体に起こる症状も凄まじかったです。
干上がって傷だらけになった脳は髄液が少しずつ満たされ始めたのか、まさに傷口に塩を塗られるように痛く、余りの痛さに自然と涙がこぼれます。
因幡の白兎が皮を剥がされ、意地悪をされ塩水を塗られた感じを想像しました。
頭は痛くて熱を持ち熱くて沸騰しているのに、足は氷のように冷たくて、全身が痛く毛布すら身体に当たるのが怖かったのです。
今となっては、どんなに痛かったのか、痛みそのものはすっかり忘れてしまったけど、あの時の感情は思い出すことができます。
余りの苦しみに、私は悪化の10%に入ってしまったのかも知れないと思ったりもしました。
姉も私をみているのが辛くて、泣いてたみたいですね。SOSを高知から呼び、次々と高知から家族がやって来ました。
私は横になって2週間は動けませんでした。
やって来た母は、泣いてる私に、笑えと言います。
笑えるか!と思ったのですが、もの凄く可笑しな出来事があったと話して大笑いするのです。
その話のアホさ加減に、笑えるか!と思ってた私もあまりに可笑しくて笑ってしまいました。
暫くの安静期間を経て、リハビリと言って家の周りを散歩に連れてってくれたのですが、少し歩いたらもう無理と言って座り込む私に、80歳のお婆さんより弱ったねと母は言いました。
あの頃は、どうしようもなく狭まってしまった行動する力に、私自身辛過ぎて、全身で哀しみを抱えていた気がします。
そして、
何にも出来んなってもかまん。
ご飯食べて息して笑いよってくれたらそれでえいき。。。
と母は言いました。
夫は深々と姉に頭を下げて帰ったと言います。
あの時は、自分の無力さに打ちひしがれたと話してくれました。
娘の参観日に私の代理で行った母は、娘の担任の先生の前で、私の話をして泣いていたと後に先生から聞きました。
両親が氏神様に、お百度参りではなく百日詣りをしてくれたのもその頃です。
家族はそれぞれ、家族らしい愛で、私を心底心配し、応援してくれたんだと思います。
続く