ONCC摂津教室 平成29年度第5期生 歴史と文学の”人と心”を学ぶ科

摂津市コミュニティセンターで、若井敏明先生、鈴木明子先生、斉藤恵美先生の先生方が交代で講義していただく教室です。

H29.11.06. 菅原道真 『大鏡』

2017年11月06日 | 日記

斉藤先生のパワーポイントに取り込んだ画像をみながらの 菅原道真 の講義です

菅原道真を以下の3つの角度からとらえて講義を進められました。

、歴史上の道真

Ⅱ、『大鏡』に描かれる道真

Ⅲ、天神として祀られる道真

 

Ⅰ、歴史上の道真 詩人で優秀官僚

 父祖の代より文章博士を務める文人貴族の生まれ、幼少から詩歌や作文において

稀有な才能を発揮。才能に加えたゆまぬ努力により学者・詩人として名声を極む。

桓武天皇の侍読であった曾祖父菅原古人の時代に土師氏から菅原に改名。

祖父清公、父親是善の後継者として菅原家の家業を継ぎ名声を得た。

 有能な政治家としても活躍し、宇多天皇の信任厚く右大臣にまで登り詰めた、が

醍醐天皇の治世に天皇の廃立を謀ったとして大宰府に左遷された(昌泰の変)

  文章経国思想のとらえ方

  通説:行政は文書による→故事・典籍を踏まえた流ちょうな漢文作成能力が必須

     紀伝道=中国の歴史書『史記』『漢書』+文章道=漢文学『文選』

  斉藤先生説:音声としての漢詩の役割(当時は黙読はなく声に出して文章を読んだ)

     時機をつかみ、時機にあった正しい政治を行う

     文章を書くことの意味(故事・典籍=普遍的な事象)は文飾ではない

大宰府左遷

◎左遷時代の道真への処置

・大宰府までの路次の国々による食事や馬の用意の禁止

・大宰府の行政に関与させず、任中の給与も従者も与えられなかった

◎大宰府での生活

・諦観と仏教(観音)信仰に明け暮れ病を得て延喜3年(903)数え59歳で死去

Ⅱ、『大鏡』に描かれる道真 

   平安時代後期成立とされる歴史物語。藤原道長の栄華を描く

藤原時平の道真に対する敵対心と道真の左遷 

・道真下向の途次、大宰府での詩歌のすばらしさ

・道真死後の霊威(北野天満宮創始・虫食い和歌説話)

・時平一族は道真の祟りによって短命であった

・雷神となった道真が清涼殿に雷を落とす

 1、道真は無実で左遷は時平の陰謀であるとの認識

 2、道真の霊は死後北野の宮に渡り天神になったとの認識

 3、清涼殿の落雷は雷神となった道真の仕業であるとの認識

 4、道真は優れた漢詩や和歌を詠う人物としての認識

 5、現在の北野社は霊験あらたかな神で天皇行幸もされるという認識

Ⅲ、天神として祀られる道真

二つの道真像

1、大宰府での道真信仰

大宰府安楽寺は道真喪葬の地、天拝山で無実を天道に訴えたところ「天満大自在

天神」になり、文道の神と認識され大宰府天満宮へ

2、都での道真信仰

時平の死去は道真と絡まず→道真左遷の宣命が破棄・焼却→右大臣に復し正二位

追贈→年号を延長に復元→清涼殿落雷を道真に関連付け→多治比あやこに託宣し

道真を天神として祀る→北野祭が官祭となり→正一位・左大臣、太政大臣追贈→

怨霊から国家の守護神へ→天神縁起説話、道真生前の伝説の作成など

 『大鏡』的道真認識が確立した。

その後の展開

 中世:天神縁起説話絵巻物の作成→天神道真礼賛

 室町期:漢詩文の担い手が貴族から禅僧へ(渡唐天神)、北野の連歌会開催

 江戸期:公家・武士・庶民へ広がった。藩校の神・寺子屋の守り神・手習いの神

     とあがめられ、天神宮参拝が盛んとなった

 近代:忠臣の鏡として楠木正成・和気清麻呂とともに取り上げられる

 現在:学問の神・諸芸の神・農業の神として12000社程度天神社がある