若井敏明先生の「伴善男と応天門の変」の講義です。
①藤原義房 ②応天門の変 ③事件の説話化 ④伴大納言絵巻の順で講義あり。
①藤原義房
大伴氏の衰退に伴い藤原氏が台頭してきたことを家系図を用い説明されました。
伴善男の誕生以前に大伴家は衰退しつつあったが、それに追い打ちをかけて藤原氏が勢力を伸ばし、特に藤原義房の活躍が顕著であることを解説。
嵯峨上皇の崩御→道康親王即位(文徳天皇)→惟仁親王(のちの清和天皇)の生後八か月での立太子への擁立→九歳での即位→良房の万機摂行<事実上の摂政の初め> を時代を追って説明。
②応天門の変
清和天皇時代の朝廷
太政大臣・藤原良房 左大臣・源信(ミナモトノマコト)右大臣・藤原良相<良房の弟>
伴善男の台頭
参議から中納言、更には大納言へ昇格(大伴家では旅人以来)
曾祖父(古麻呂)祖父(継人)父(国道)とも不遇をかこった。
淳和天皇(大伴親王)の即位にともない大伴姓から伴姓に改名(されられた?)
応天門の変
・貞観8年(866年) 応天門の火災により棲鳳・翔鸞両楼を延焼
・伴善男、藤原良相と共謀し源信の失脚を図るが、藤原良房が介入し失敗。
『大鏡』裏書<注:巻物の裏に、注釈・補遺などを書くこと>に事件の経緯などが
記述されている
・事件の急展開
最初大納言伴善男は左大臣源信の所業としてその処罰を主張したが,
太政大臣藤原良房らの工作で無実が明らかになった。
が、左京の備中権史生大宅鷹取が伴善男・中庸父子が真犯人であると告げた
その結果、伴善男は伊豆に流罪、伴氏一族、さらに連座したとして紀氏一族
などが流刑などの処分を受けた。
事件の結末
ⅰ 伴、紀氏の没落
ⅱ 源信、藤原良相の事実上の失脚
ⅲ 藤原良房全権掌握 これに伴い養子(良房の長兄長良の実子)基経が信頼確保
若井先生のコメント;藤原氏の摂関政治が軌道に乗り始める。
この機会を利用し藤原氏は大伴氏・紀氏を排除することとした
紀氏は政治の世界から歌の世界に活路を見出した。
③事件の説話化
一連の事件経過は、『宇治拾遺物語』巻十「大納言焼応天門事」記述された
若井先生のコメント;この物語は芥川龍之介の作品(羅生門・鼻など)のタネ本
④『伴大納言絵巻』
応天門事件の模様を描いた「伴大納言絵巻」 インターネットより
若井先生の結論;伴善男は強引な出世をしようとして墓穴を掘った。
その後菅原道真が世に出てきた。