「高僧名僧伝・蓮如」アマゾン電子書籍紹介」。
蓮如(1415年~1499年)室町から戦国時代の浄土真宗の僧侶。本願寺第8世として布教を行い、教団の発展に寄与した。諱は兼寿。父は第7世存如。本願寺の本所である延暦寺青蓮院で17歳の時得度、20歳の頃から父存如の活動を助けた。存如「正信偈」「山帖和議」を勤行の中心とするなど作法を整備し、近江門徒へ教化を行い、室町幕府の有力者日野氏や将軍側近の伊勢下総守家と、姻戚関係を結び教団の地位向上を図った。その方針を連如も引き継いだ。その正妻如円尼は実子応玄を後継者にしょうとしたが、一族、家臣、門徒衆の衆議に支えられて蓮如が住持となった。蓮如の精力的活動によって近江の教線は拡大し、幕府奉公衆にも帰依するものが現れた。こうした発展は延暦寺を刺激し、1465年(寛政6)延暦寺衆徒によって京都東山の本願寺は破却され、近江門徒も多く弾圧を受けた。1467年(応仁元)延暦寺西塔院末寺として末寺銭を上納することで和解が成立した。1471年(文明3)越前国吉崎に坊舎吉崎御坊を構え、この頃から頻繁に御文を門徒たちに与えるようになる。また「正信偈」「三帖和議」を開板した。これらの活動によって教線は飛躍的に発展し、加賀で盛んだった高田派との対立が激化、高田派が守護富樫幸千代と結んだために、本願寺派幸千代と対立していた富樫政親を擁立し、1474年幸千代を追放した。翌年、蓮如は加賀国内の抗争を避けて北陸に去り、京都山科に本願寺の建設に着手、完成後はそこに住んだ。一家衆の制を設け教団は基礎を築いだ。著作「御文」真宗教義の書として広く親しまれている。