「最後の将軍・徳川慶喜」アマゾン電子書籍・グーグル・プレイ電子書籍・楽天ブックス電子書籍・角川・BOOK★WALKER、電子書籍紹介」
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)【1837~1913】
江戸幕府最後の将軍(第15代)の将軍、1866年(慶応2)~1867年在職。明治末期の公爵。水戸藩主徳川斉昭の七郎麿。生母は斉昭正室の有栖川宮吉子。1847年(弘化4)一橋家を相続して慶喜と改名。13代将軍家定の後継者候補だったが、紀州藩主の慶福(14代将軍家茂)に敗れ、安政の大獄で隠居謹慎処分となった。1862年(文久2)島津久光が率兵上京し、幕政改革を命じる勅使を擁して東下してくるという情勢下で一橋家を再相続し将軍後見人に任じられた。同年8月の参勤交代廃止などの幕政改革は慶喜後見職、松平慶永政事総裁職をトップとする新体制によって強行された。1863年の将軍家茂の上京に際しては旧暦前年末から先行入京し、将軍に政務を委任するとの言質を取り付けることに努めた。天皇と公卿の強烈な要求を受けて攘夷実行を約束し、帰府のうえ不可能を理由に辞表を提出するなどの駆け引きに苦心が多かった。1864年(元治元)には京都で島津久光や山内豊信らとともに朝議にあずかっていた参予会議、幕府の希望でやむなく内側から崩壊させた。同年後見職を免ぜられ禁裏守衛総督に就任して京都に常駐、蛤門の変では禁裏防衛の総指揮をとった。1865年(慶応元)から翌年にかけて長州親征を呼号して家茂が大坂城に滞在したときには、京都、大坂を往復して幕府と朝廷の間を調停することが多かった。1866年家茂が大坂城で病没すると、はじめは徳川家相続のみ、ついに1867年1月10日将軍宣下の2段階を経て戴5代将軍となったが、襲職後も京都にとどまり条約の締結諸国公使らの謁見は大坂城で行った。土佐藩の建白を受け入れて同年11月9日大政奉還を上表、しかし将軍職の辞表は諸侯会議まで待つようにと却下された。1868年1月3日(慶応3年12月9日)諸侯会議抜きで王政復興の大号令が発せられ将軍職廃止が一方的に宣言されると、大坂城に集結した旧幕府系の軍隊はこれは一部の大名の陰謀だと断じ、同月末討薩表を掲げて京都へ攻め上がったが、鳥羽伏見の戦で敗北し、慶喜は城と軍隊を放棄して江戸に戻り謹慎、徳川宗家を田安亀之助に譲って隠居した。謹慎解除後も長く静岡に閑居、狩猟や写真を趣味として1897年(明治30)東京に居を移し、1902年には家達の徳川公爵家とは別に公爵を親授され徳川慶喜公爵家の当主となった。1908年慶喜公爵家を七男慶久に譲って隠居、なお3年生きて「大正」に達した。