以前にブログで紹介した新聞記事「たまプラーザという駅」のパート2です。
『東急田園都市線のたまプラーザ駅は、横浜市青葉区美しが丘にある。ここに住んでいたある作家が、もともと「港区元石川」という地域が今では「青葉区美しが丘」で駅名が「たまプラーザ」。恥ずかしくて名刺にも書けないと、はじめは怒っていたという。
1963年(昭和38年)に田園都市線の溝の口→長津田間の延伸工事が始まった当初、駅名は暫定的に「元石川」とされていた。それが65年9月の常務会で「たまプラーザ」に変更されたのだ。「たま」は多摩を、プラーザはスペイン語で公共の広場を意味する。当時の社長、五島昇が、東急の開発する「多摩田園都市」に広場中心の街づくりがなされるのを願って命名した。
当時の最新の住宅地は、日本住宅公団が建設する団地だった。関東の私鉄は、団地の完成に合わせて団地と同じ名称の駅を開業させたり、最寄りの駅の名称を団地名に改称させたりした。西武新宿線の新所沢、西武池袋線のひばりが丘、新京成電鉄の常磐平と高根公団、小田急小田原線の百合ヶ丘、東武伊勢崎線の松原団地。みなそうである。沿線に大型団地ができることは、私鉄のイメージが上がるとともに通勤客も一気に増えるという二重のメリットがあると信じられていた。ところが東急はそうした時流に乗らなかった。あくまでも一戸建て主体の住宅開発を進めたからだ。確かに68年にはたまプラーザにも団地ができたが総戸数は1254戸と少なかった上に全戸分譲だった。総戸数が5926戸で全戸賃貸の草加松原団地のような大型団地は、田園都市線の沿線にはなかった。一戸建て主体の住宅開発は時間がかかる。75年に西武沿線からこの沿線に移ったときは、まだ自然豊かな丘陵地帯があちこちに残っていた。当時はすでに西武池袋線や西武新宿線は10両運転を始めていたが、田園都市線は4両運転で、平日朝の上りを除いて各停しかなかった。それから45年が経ち、田園都市線沿線は大きく発展した。逆に団地の多くは建替えられ、マンションのような名称になった。松原団地という駅名自体が「獨協大学前」に改称され、百合ヶ丘の隣の新百合ヶ丘は駅名の由来を明かさぬまま、駅名が芸術のまち「しんゆり」に変貌しつつある。そう考えると、東急の構想の一貫性はやはり見事というほかない。五島昇が夢みた広場中心の街なみはたまプラーザに現れたのか。「恥ずかしくて名刺にも書けない」と作家は今なお言う・・・・。』(新聞記事から)
現在、福津市の福間駅から広がる光陽台の開発は西武。東福間駅から広がる若木台は東急の開発。何か不思議な感じがします。
【今日の言葉】
『責任及び義務』
責任及び義務とは、与えられた役割を100%果たして、成果を創り出すことである。
だから、会社の経営者の責任及び義務とは、会社の業績をあげて、そこで働く社員の幸せを実現することである。又、社長と社員の間にいる幹部の責任及び義務とは、社長を補佐し、そこで働く社員がより多くの能力を発揮して、成果を創りだすよう指示、指導、育成することである。
そして社員の責任及び義務とは、与えられた仕事の役割を自覚して、会社のたてた目標、方針にコミットし、自分に期待された“成果”を創り出すことである。
社長にしろ、幹部にしろ、社員にしろ、成果のないところに、責任や義務の達成はありえない。
日本創造教育研究所 心の日めくりより