焼き場に立つ少年とは
「焼き場に立つ少年」は、アメリカ軍の従軍カメラマンだった、ジョー・オダネル氏が、原爆投下後の長崎で撮影したとしている写真です。
「焼き場に立つ少年」は、アメリカ軍の従軍カメラマンだった、ジョー・オダネル氏が、原爆投下後の長崎で撮影したとしている写真です。
出典ローマ教皇 「焼き場に立つ少年」の写真家の家族にあいさつ | NHKニュース
この写真には、目を閉じた幼い子を背負いながら、唇をかみしめて直立不動で立ち、まっすぐ前を見つめる10歳ぐらいの少年の姿が写されています。
オダネル氏は、すでに亡くなった弟を背負った少年を写したものだとし、このあと少年が見つめる中で弟は屋外で火葬されたと伝えています。
オダネル氏が長崎や広島など日本各地を回り、私用のカメラで撮影したフィルムは、アメリカに帰国したあとも悲惨な記憶とともにトランクの中にしまわれていました。
しかし、オダネル氏は過去と向き合うことを決意し、帰国から40年余りが経過した1989年にトランクを開き、翌1990年には地元・テネシー州で原爆の悲惨さを訴える写真展を開催。
アメリカ国内では反発を招いたものの、その後、日本各地でも写真展が開催され、平成19年、2007年には長崎市にある長崎県美術館で「焼き場に立つ少年」が特別公開されました。
「焼き場に立つ少年」はあの子?謎追う被爆者 ローマ法王注目の写真
2019/8/5 6:00 (2019/8/5 14:32 更新) 西日本新聞 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/532764/
亡くなった弟を背負った少年が、真っすぐ前を見つめる。原爆投下後の長崎で撮影したとされる写真「焼き場に立つ少年」は、11月に来日予定のローマ法王フランシスコが世界中に広めるよう呼び掛けたことで注目された。法王は言う。<このような写真は千の言葉よりも伝える力がある>。
写真は、米軍の従軍カメラマンだった故ジョー・オダネルさんが1945年に長崎で撮影。少年が焼き場で弟を火葬する順番を待っている場面だとされる。
◇ ◇
2017年末、法王は写真をカードに印刷し、<戦争がもたらすもの>というメッセージを添えて各国に配るよう指示。
日本ではカトリック中央協議会(東京)などを通じて配布された。
「私はあの子に会うたとさ、話したとさ」。カトリック信者でもある村岡さんは法王の行動に背中を押され、少年を捜し始めた。
45年8月9日、村岡さんは爆心地から1・6キロ離れた自宅で被爆。外出しようとした瞬間、閃光(せんこう)が走り吹き飛ばされた。がれきの下からはい出し、両脚と左腕のやけどの痛みをこらえながら母たちと裏山に逃げ込んだ。あの少年も幼子を背負って裏山にいた。「どうしよっとね」と尋ねると、少年は「母ちゃんを捜しよると」と言い、立ち去ったという。それっきり会っていない。
★教皇配布の「焼き場に立つ少年」カード、日本語版完成
今年 (2018年) 1月にニュースとして伝えられましたが、昨年末バチカンで、教皇フランシスコが作成し、関係者に配布した「焼き場に立つ少年」のカードについて、この日本語版が完成しました。現在、日本にある16の教区本部事務局を通して配布しています。
写真は、アメリカ人の従軍カメラマンだった、故ジョー・オダネルさんが1945年の原爆投下直後に長崎で撮影したものです(写真の詳しい説明は、以下の著書『神様のファインダー』からの引用文を参照してください)。教皇がこの写真を用いたことに、核兵器廃絶を繰り返し世界に強く訴えるその姿勢が表されています。
写真を受けて、カード裏面には「戦争がもたらすもの」との教皇フランシスコのことばと署名があり、さらに写真について、「……この少年は、血がにじむほど唇を噛み締めて、やり場のない悲しみをあらわしています」といった説明文が添えられています。
信者の皆さまは、本カードは教区本部事務局から各小教区などへ配布される予定になっていますので、そちらでご入手いただけるよう、しばらくお待ちください。なお、具体的な配布方法や時期は、各教区によって異なりますので、この点はご了承ください。
一般の方でご希望の方については、弊協議会に若干数、在庫があります。電話かファックス、または問い合わせフォームで、お名前、住所、電話番号、必要枚数を書いてお送りください。送料を受取人さまご負担でお送りいたします。よろしくお願いいたします。
2018年7月6日
カトリック中央協議会 司教協議会事務部事務課
電話 03−5632−4445、
ファックス03−5632−4465
カトリック中央協議会 司教協議会事務部事務課
電話 03−5632−4445、
ファックス03−5632−4465
焼き場に立つ少年
佐世保から長崎に入った私は小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男たちが目に入りました。彼らは60センチほどの深さに掘った穴のそばで作業をしています。
やがて、10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目にとまりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に負っています。弟や妹をおんぶしたまま広場で遊んでいる子どもたちの姿は、当時の日本ではよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的をもってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすりと眠っているのか、首を後ろにのけぞらせていました。
少年は焼き場のふちに5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクの男たちがおもむろに近づいて赤ん坊を受け取り、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に焼けるジューという音がしました。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がり、真っ赤な夕日のような炎が、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気づいたのは。少年があまりきつくかみ締めているため、血は流れることもなくただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が鎮まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。
少年は焼き場のふちに5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクの男たちがおもむろに近づいて赤ん坊を受け取り、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に焼けるジューという音がしました。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がり、真っ赤な夕日のような炎が、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気づいたのは。少年があまりきつくかみ締めているため、血は流れることもなくただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が鎮まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。
🔶フランシスコ教皇は2017年の年末、自らの署名と「戦争がもたらすもの」というメッセージを添えて、同写真を教会関係者に配布するよう指示した。どんな言葉よりも雄弁なこの写真を皆で分かち合いたいと思ったのだという。カード裏面には「この少年は、血がにじむほど唇をかみしめて、やり場のない悲しみをあらわしています」という説明が付された。
11月24日、長崎市の爆心地公園でスピーチを行った教皇は、ジョー・オダネル氏の息子のタイグ・オダネル氏(50)と対面した。タイグ氏が「父の写真を使っていただき、誠にありがとうございます」と伝えると教皇は「使わせていただきありがとう」と語り、タイグ氏に記念のメダルを手渡した。
「『焼き場に立つ少年』の写真がきょう、爆心地に掲げられていたことを誇りに思います。世界中の人がこの写真を見て、『長崎の悲惨な経験を繰り返してはならない』と思いを寄せた瞬間になったのではないかと思う」
タイグ氏はそうコメントした。
原爆資料館で戦争の悲惨さを訴える「焼き場に立つ少年」は、1995年5月に初版が発売されたジョー・オダネル氏の写真集『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』(小学館刊)にも収蔵されている。
ジョー・オダネル氏は1945年9月2日に佐世保に近い海岸に上陸した。空襲による被害状況を記録する命令を受け、日本各地を歩いた。1946年3月に本国帰還。持ち帰ったネガは、二度と開くことがないだろうと思いながらトランクに納めたという。だが、45年後、同氏は翻意する。戦後の日本で目撃した悪夢のような状景を忘却の彼方に押しやってはならないとの思いのもと、トランクを開け、奇跡的に無傷だったネガを現像し、写真展を開催した。
同書にはまさに焼け野原の日本、市井の子供たち、仮設病院での痛々しい患者の姿、米軍兵士の生活ぶりに至るまでが克明に記録されており、その写真の背景について、同氏の文章が綴られる。
ジョー・オダネル氏は2007年に鬼籍に入った。一連の写真について同氏の言葉が確認できるのは、この写真集の中だけに限られる。
「焼き場に立つ少年」の脇にはこうある。少し長くなるが引用する。
〈焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には二歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。
私はカメラファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をピンと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?〉
ジョー・オダネル氏は、その後、少年を探そうと複数回来日したが少年との再会は叶わなかった。現在に至るまで、この少年が誰なのかはわかっていない。
教皇がこの写真を配布指示したから報道されたことに違和感はあります。
核兵器や戦争反対という意見に悪用されないことを望みますが どう感じるかはその人次第。