吉田 茂
【第45・48・49・50・51代日本国・内閣総理大臣。皇學館大学総長、二松学舎大学舎長 等々。大久保利通は義祖父、 寬仁親王妃信子 、現政府の麻生太郎副総理は孫。】
の私邸
国道1号線(東海道)を挟んで海側に旧吉田茂邸があったのですが、平成21年に放火により焼失してしまいました。その後、大磯町と神奈川県により再建が進められ大磯町郷土資料館・別館として公開されました。
※吉田茂は、幼少期に横浜の貿易商である吉田健三の養子になり養父が大磯に別荘を建て、養父亡きあと吉田茂が自宅として住むようになったとのこと。
今回初めて見学して、吉田茂氏が存命・居住中に私は何度もこの前を通っていましたが一向に気に留めなかったのが惜しまれます。
大磯の吉田茂邸近辺には、
旧伊藤博文邸(現滄浪閣) 、旧山縣有朋邸 、旧陸奥宗光邸 、
旧西園寺公望邸 、旧大隈重信邸 、
三菱財閥創始者・岩崎弥太郎(現エリザベス・サンダースホーム)
三井財閥創始者邸、島崎藤村旧宅 、
新島襄終焉の地 、その妻の幕末のジャンヌ ダルクと云われた会津藩 新島八重の土地、
日本三大俳諧 道場 「鴫立庵 」、西行法師 ・芭蕉 も大磯に逗留し歌碑を数多く残しているなどなど枚挙に暇がないほどの日本国に尽くした方々【現代日本の単なるカネ儲けの上手い人とは人品骨柄総て異なる先人】が住まいや別荘を構えていたそうです。
大磯に住んでいたのは大物首相ばかり8人
受付
無料ですから用件がなければスルー可。パンフも無料です。
国登録文化財の建造物
旧・吉田茂邸 中庭
庭造りも含蓄のある説明を戴きましたがチンプンカンプンです。
中庭から玄関に向かいます
玄関
劇場などの設計で名高い建築家・吉田五十八 氏の設計。
玄関内の受付
床はカーペット敷きで素足で見学になります
1階入ってすぐ右に
楓の間 【畳40畳分の洋間】
ジョン・ダレス米国務長官やアデナウアー西独首相などと会談した場所。
昭和54年6月26日には、当時の大平首相とカーター大統領の日米首脳会談が行われたそうで大統領までこの部屋で対応。
室内調度に蒋介石から贈られたバラの木で作られた国宝級の衝立。大理石の暖炉。印度ネール首相からの孔雀の剥製が置いてあり、幕末の儒学者・佐藤一斎の直筆軸もあったそうです。
坪庭
食堂(ローズルーム)
北側の窓から見える木立の奥から滝が流れ落ちるようになっていて、お気に入りの来客の時には滝を流したようです。
椅子は、賓客の好みに合わせてその都度張替え、カーター大統領が来日した時も張り替えたそう。
1階はどの窓からも庭園が観られます
2階
金の間 【賓客を迎えるための応接間】
金の間からは、箱根や富士山といった山々と太平洋とを一望することができ吉田茂はこの部屋から見える富士山を大層気に入って、毎日のように眺めていたそうです。今は大磯プリンス(1964年の東京オリンピックで江ノ島ヨットに参加する各国選手の選手村として建設された大磯ロングビーチのあるホテル )が富士の下方に入った景色になります。
※ボランティアさん説明~吉田のもとには政財界の要人を筆頭に様々な人々が訪れました。吉田邸を訪れる人が絶えないために「大磯詣(もうで)」という言葉ができたほどです。
また、吉田は自身の邸宅を海外の賓客を迎えるための迎賓館としても使えるように改築し、世界各国からの賓客を多く受け入れました。
書斎
限られた身内以外は許可なく入ることができなかったという吉田のプライベートの部屋。窓からは名庭園が一望できます
大磯に住み、官邸に通う生活が長いので吉田邸から首相官邸を直接繋ぐダイヤルのない黒電話も設置。
伊藤博文の書
書斎の掛け軸はどなたの?
アップしても判読できません
別の窓からは、当時からかなり小さくされて、様子の変わってしまった庭が見えます
竹林 と庭の中に私道も。
銀の間 【吉田茂首相が寝室として寝起きをしていた部屋】
銀の間の名の通り天井にも銀が多用されています。
襖には銀色を呈する真珠の粉末入りの襖絵が描かれています
昭和42年(1967)吉田は大磯の自宅、この部屋のベッドで息を引き取りました。
浴室は、昔大磯の浜辺でよく見られた漁師の舟を模した木製の浴槽を特注で造り、床は板敷で、トイレは当時から洋式水洗でした。
吉田茂首相というと葉巻とステッキが思い出されますがその実物遺品が展示されていました。
吉田茂首相というと葉巻とステッキが思い出されますがその実物遺品が展示されていました。
平成21年(2009)3月22日、旧吉田茂邸において放火されましたが幸い敷地内の兜門や庭園は焼失を免れ、サンルームと兜門は当時のまま形だけは残っています。
兜門前の吉田首相
※大磯町郷土資料館のウェブサイトから転載
中門(兜門、講和条約門とも)
昭和26年(1951)のサンフランシスコ講和条約の締結を記念 して造られた。
兜門は門の内側が兜の形をしているため。
✽京都裏千家の今日庵の兜門を模して、同じ職人を呼んで造らせた。
建設費は当時で 2700万円、一般家庭の家が10軒建つほどの金額。
✽屋根は桧皮葺きで、葺替えは50年不要。
✽日本の伝統建築工法で、釘は使用していない。
門の柱、木枠に竹を組込んだ扉は「とくさ仕上げ」
✽門から玄関入口下まで芝生が張られた敷石は、皇太子ご夫妻がご訪問された時に敷設された。
大磯の吉田邸付近の著名人の邸宅配置図
伊藤博文が大磯に来てから大磯で閣議を開いたりし、明治政界の奥座敷と呼ばれていたとのこと
今の菅首相がこんな豪勢な自宅に住んでいたらマスコミや歪んだ国民から袋叩きでしょう。でも世界のトップクラスの国の首相ですから至極当然、公式な場にも使っているのですから もっと立派なプーチン宮殿のようでもおかしくないと思います。
西ドイツのアデナウアー首相と吉田茂私邸の庭で懇談
※大磯町郷土資料館のウェブサイトから転載
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吉田茂エピソード
◎養父吉田健三は40歳で逝去、吉田茂は11歳で当主となる。
◎金には無頓着で、相続した巨額な資産は首相になる頃は使い果たしていた。政治資金は 三女・和子の婿である麻生太賀吉(九州の炭鉱主)が援助し、吉田の口座が空にならないように金を振込続けたため、吉田の首相在任中に麻生家の財産は半減 した。
◎三女和子は「父はどこよりも大磯を愛し、里といえば祖母の住む大磯のことと思ってい た「ワンマン」と云われている父は強い性格であるが、反対意見にぶつかった時には怒りを抑えて意見を聞き、納得がいけば自分の意見を撤回して速やかに転換を図り、拘るとかわだかまるような風が無かった」と思い出に書かれている
◎イデオロギーにとらわれず、実利主義の持ち主
「日本はまだ経済力も弱く、自国の安全をまもることが出来ない。先ず経済の復興が先決だ。駐留軍は日本の番犬と考えればいいのだ、しかも経費は向こう持ちだよ。君たちは考え方がプアだね」と米国を番犬呼ばわりした。
◎吉田茂は常に複数犬(ケアーン・テリアやシェパード)と暮らしていた。
『ワンマン道路』ですが。何か?
子供の頃に国道1号線、横浜の神奈川区から藤沢市手前の戸塚端まで10分程度で行ける「横浜新道」という当時は珍しい路側付きで片側2車線の格安有料道路がありましたが意味も分からずに皆が「ワンマン道路」と呼んでいました。
吉田茂首相が大磯から東京に通勤するために通した道路だったのでその名前で呼ばれていたようです。 料金はたしか20円~50円くらいでとても快適・便利でSAまで整備されていて通学などでも頻繁に使わせてもらいました。皆さん大いに助かっていたと感じています。
大物総理大臣が出てこないのは最近の国民が程度か低くなっているのでしようか?
日本国民を低レベルにしようとする他国の陰謀かもしれません
そうかもしれません、一国のリーダーですから国民は真剣に選んで、選んだからには全幅の信頼を寄せて応援すべきなのでしょうね。
世界では不正に選ばれて独裁の圧政を敷く為政者にいいようにされている可哀想な国民だって多いのですから。