旅 ・ 懐かしいもの探しetc

 旅行はあまり有名ではないところをメインに身勝手な感覚で記述し、武漢ウイルス以降はグチばかり・・・

神奈川県  藤沢市 ・ 遊行寺

2016年03月14日 | 旅行
清浄光寺・時宗総本山 
【藤沢山無量光院清浄光寺。近世になって遊行寺(ゆぎょうじ)と通称】


僧侶養成機関藤沢道場ともいわれ、法主(ほっす)が藤沢上人で藤沢上人と遊行上人が同一であるために通称の遊行寺の方が知られているようです。

遊行寺橋を渡って、日本三黒門の総門である冠木門をくぐり…
山門内からの参道


本堂  かなり巨大な本堂です


本堂脇の大樹~大銀杏(藤沢市天然記念物)


※一遍上人から引用
一遍上人が初めて藤沢の地を踏まれたのは弘安5年(1282)のことです。
すでに遊行の旅は8年間が過ぎ、九州・四国・山陽・近畿・奥州・関東を回られていました。

そしてこの春、常陸・武蔵を経てぶくろ坂から鎌倉入りを目指されます。鎌倉は幕府の所在地、将軍は惟安親王、執権は北条時宗でした。

当時、鎌倉では禅宗の寺院が北条氏の保護を受けて盛んになるのをみて、各宗の高僧たちは鎌倉での布教をこころみます。

また、仕事と食料を求める浮浪の人々も数多く集まってきました。ありとあらゆる階層の人々が、せまい鎌倉市中にひしめいていたのです。

一遍上人も多くの民衆への念仏勧進を願い、鎌倉に入ろうとされました。ところが、こぶくろ坂で警護の武士が行く手を遮ります。もっとも、幕府としては、浮浪者の取り締まりを厳しくしていた鎌倉に、乞食のような恰好をした僧尼の一団を入れる訳にはいかなかったのです。

武士に棒で叩かれながらも一遍上人は、「人々に念仏を勧めて歩くことが私の命である。このように制止されれば、どこへ行けばいいというのか。いっそこの場で命を終えよう。」とおっしゃいました。一遍上人の衆生化益への強い意志がうかがえます。気迫に圧倒されたのか、武士は鎌倉の外では布教が禁止されていないと告げます。そこで、一遍上人は片瀬(藤沢市)へ向かい、別時念仏会、踊り念仏を修されたのでした。

この時、一遍上人がはじめて藤沢の地に足跡を印したのです。ただ、のちに遊行四代呑海上人がこの藤沢に遊行寺を開き、それが総本山になろうとは一遍上人自身の思いもよらないことであったでしょう。


境内の奥には藤嶺学園藤沢高校が見えます

藤嶺学園藤沢中学校・高等学校は、1915年に創立。
前身は、1894年に創設された、清浄光寺(遊行寺)の僧侶養成機関藤沢道場。
「時宗宗学林」のゆかりから授業の一環として「修養」があるが、信教による入学制限などは全く存在せず、宗教的な学校ではなく藤沢翔陵高等学校・鵠沼高等学校は分校。

バレーボールでは国体優勝6回、全日本優勝2回など全国屈指の強豪校で高校野球でも甲子園で優勝するより困難といわれる神奈川代表経験も。

卒業生には著名人も多く極一例では
・法務大臣、警視総監、参議院議員の秦野章氏のほか洋画家鳥海青児氏
俳優、小説家、作曲家、金メダリスト、スポーツ選手、企業家等々枚挙に暇がないほど

遊行寺宝物館 国宝、重要文化財、史跡、重要美術品、県指定重要文化財などが収蔵されていました

 拝観料などはなく、駐車場なども無料で、境内を通る高校生が皆挨拶をして通るなど天候はよくなかったのですが爽やかに歴史を感じられた遊行寺でした。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 静岡県 清水 三保の松原 | トップ | 神奈川県 小田原名物 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

旅行」カテゴリの最新記事