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日本人はなぜうまくいくかビジネス編-5-9、七沢賢治、一条仁志

2021-01-02 13:47:51 | 日本人はなぜうまくいくか
第5章ーコミュニケーションの土台~Comunication Platform~

-投獄、倒産、大病ですか。確かにこういうことでもない限り、じっくり考える機会はなかんかないですもんね。

そういう機械があったら立ち留まれるから(笑)でもそこを経験している人って少ないじゃないですか。

-うーん。じゃあ僕だったら本当にお金が無くなってテイクアウトのコーヒー一杯も飲めなくなったり、毎月電話が止まるとか、そういうことがあったから。

うん。だから止まって考えることができたわけでしょう?だから、コーヒーが飲めなくなって良かったねと(わらい)

-電話が毎月止まってよかったねと(笑)

そうです。

-いや「そうです」じゃないですよ、先生。そんな状況になって考えるなんて大変なんですから(笑)だからあれですね、これは。この本を読んでいる方には、投獄y阿藤さんや大病やコーヒーを飲めなくなる前にぜひ、この取る郁美をしていただきたいですね。

そう思うんだけど。まぁ、ね、社会経験としてはいいかもしれないけど。

-そうはいってもね、やっぱりできるうちにできるだけのことをしておくのがいいと思いますよ、僕は。経験者としてね。

ということだそうです(笑)

-だから笑い事じゃyないですって(笑)

まぁ、そうはいってもなかなか難しいですからね、自分でやろうとすると。だから、これを機械的にやる方法というのも開発してみたんですよ。名前をね、Communication Platform(コミュニケーション・プラットフォーム)というね。

-コミュニケーション・プラットフォーム?コミュニケーションの土台、ですか?

そう。

-また、えらく壮大な名前ですね。

うん(笑)でも結局そこだからね。

-それはどんなシステム?装置・なんですか?

うん?そうですね、システムであり、やり方であるというか。まず先にやり方があって、それをプログラムというシステムにしていったという感じですけど。

-どんな内容なのか、お話いただいていいですか?

はい。といいますか、システムを開発するときの設計書のそのまた大本みたいなものがあるからそれをご紹介しましょうか?

-お。それはマル秘文書みたいで興味あります。どんな内容なんですか?

これなんですけどね。

-おお・・・。これは結構、難しい・・・内容ですね・・・。

まぁ、システムの設計書の、そのまた大本だから(笑)

-うーん。まぁ、ゆっくりよんでいけば理解はできるし、理解してしまえば方法論としては使いやすいという感じですか。じゃあ、こういういわばマニアックな文章ですけど、ご参考になる方はご参考にしてくださいという前提で、ご紹介しておきますか。そうですね。基本的には自分の「欲望」を紙やなんかに書き出すだけでもいいんだから。これはこういうのもあるんだねという参考程度でね。

-はい、では、参考にしたい方は参考にしていただいて。あとはマニアックな方はマニアックなマル秘資料として楽しんでいただくと。

はい(笑)

-僕みたいに、「もう内容が難しすぎて、よくわからんわ」という人は、もうすぐ次の章に移っていただいても構わない?

もちろん。これは参考ということでね、だって設計書の大本なんだから。

ーということですので、この部分をおまれる方は、「うーん。わからない・・・」と言ってこの本をポイっと放りなげたりせずに(笑)

(笑)

-スパッと割り切って、次の章に進んでくださいと。

進んでください(笑)

-だってほんとに理解できないもん、僕(笑)

それは困ります、共著者なんだから(笑)

-ごめんなさい。でも、わからない(笑)というわけで、こういう内容だそうです。

Communication Platformのアーキテクチャー

私とはー

人は、一つの体を持ち、一つの名前で呼ばれますが、自己意識は、複数の意識が集まり後世されているものと考えられます。ところがそれらは自己のものでありながら、すべての意識について認識することは、一般的に誰にとっても困難であるという事実があります。そして自己の意識を構成する個々の意識は、意識的、あるいは無意識的に、日々刻々、様々な形で影響しあい、人格の表層に立ち現れます。

Communication Platformは、他者とのコミュニケーションを前提として、自己意識を4つの階層から成る5つの領域(超越自己・理想自己・主体自己・客体自己(複数)・自己内他者(複数)で説明する自己意識も出るです。この自己意識も出るを使って、自己の意識状態を自分自身の言葉で表現することで、自己理解が飛躍的に深まります。

1、自己意識の認識

自己いしきの領域の中で、主体自己については、誰しも比較的明確であると認識しているのではないでしょうか。しかし実際はそうとは言えません。意識の持つ融通性、言い換えれば、どの意識も主体自己(意識)となりえる、という性質が、それぞれの領域を区分けして考えることを難しくしています。しかも、事実を暴露したくないという「原初的な抵抗」も働きます。中でもとりわけ強固な抵抗は、意識と無意識との間の「見えない壁」です。これらの「抵抗」や「見えない壁」の妨げなしに自己の意識を認識する技術がComunication Platformに組み込まれています。

2、Comunication Platformのテクノロジー

2-1。複数連想処理による自己意識分析

(Self-concsiousness analysis by multiple association processing)

無意識に発した言葉には、意識したの情報が含まれていると考えられます。心に浮かんだ2つの言葉を基にして、1つの言葉を連想するという処理を繰り返すことで、より深い意識状態を音場に置換することが可能になります。この意識の複数連想処理により導かれる言葉を、「エッセンス」と呼び、エッセンスを導く端緒となる言葉を「エッセンスパラメーター」と呼ぶことにします。そしてこれら一連の処理を「連想処理」と呼びます。各ユニットで導かれたエッセンスを、互いに組み合わせて連想処理をすると、さらに深い意識が導かれます。この処理を「コミュニケーション連想処理」と呼びます。これらの処理を組み合わせることで、Comunication Platformは成り立っています。

2-2. 自己意識間の相互コミュニケーション

(Мulual sommunication of self-conciousness)

私たちは無意識のうちに、意識と意識を比較したり、結びつけたりして自己意識を変化させていきます(Comunication Platform)では、意識間コミュニケーションと呼びます)。コミュニケーション連想処理は、この処理を意識的に行うもので、導かれたエッセンスを、次の処理を意識的に行うもので、みちびかれたエッセンスを、次の処理のパラメータに設定して連想処理することにより、この機能を実現しています。

2-3 Communication Platformによる自己意識の最適化

(Opmization of self -今s氏負うs根ssbyCommunication Plat form)

自己意識をエッセンスとして言葉に置換することにより、バラバラで不明確であった自己の意識が整理され、秩序を伴ったものに変わります。そして、意識と意識の間の整合性や矛盾について、理解することができるようになります。肥大化や、矮小化していた自己意識はCommunication Platformによって最適化されます。

2₋4 Comunication Platformによる自己意識の変容

(Transformatic of self-consciousness by Communication Platform)

自己意識の概要をCommunication Platformを通して認知したとき、自己意識の概要をCommunication Platformを通して認知したとき、自己意識の変容が始まります。自己意識の変化は、他者理解の変化へとつながり、スパイラルな意識変化の循環が形成されます。Communication Platformは変容する自己意識、言い換えれば自己意識の進化を支援する機能を以ています。

・超越自己₋判断しない→自己内自己(主体自己)→自己内自己In(客体自己)→超越自己
・自己内自己(主体自己)Ⅰ⇔理想自己→自己内自己In(客体自己)→自己内自己I(主体自己
・自己内自己(主体自己)I→自己内他者I→自己内他者→自己内自己In(客体自己)→自己内自己I(主体自己)→自己内他者I⇔他者

第6章 顧客の満足、自分の満足

-僕なんかにとては、結構難しい内容だったわけですけどね、先ほどのCommunication Platformの説明は。(笑)

-でも結局、Communication Platformというのは、じこ内自己の把握のプロセスをシステムにしたという話ですよね。ある意味、プロセス自体はものすごくシンプルであり、機械的でもあるという。

そうそう。だからプログラムというシステムになるわけですよ。

-うーん。じゃあ、自己内自己の把握をするためには、紙やパソコンに自分の欲望を書きだすところから始めてもいいし。

いいし。

-今ご紹介していただいたCommunication Platformというシステムを使うか、システムの基にあるやり方を使ってもいいし。

うん。

-ということなんですね。

はい。

-ふーん。そうやって自己内自己というか、主体自我の内容を把握していったとしてね。ビジネスで成果を出すためには次に何をすればいいんですか?

次は、自己内他者の把握というか、それはすなわち他者への問いでもあるんだけど。

-え?でも、自己内他者はどこまでいっても妄想みたいなものだという話でしたよね?

うん。だから、自己内他者を把握すると同時に他者そのものを把握することになっていく。

-なんだかまたしても高度な話っぽいですけど(笑)

いや、説明の言葉が分かりにくいだけでね、やってみれば簡単です。

-そうなんですか?

じゃあ、その内容を教えていただけますか?

はい。

※他者を理解しようとするならば

前の章まででビジネスで成果を上げるためのスタート地点として、自己内自己を把握するということをしてきました。つまり、自己内自己に対してのナレッジモデリングができた。次にすることは、字おk内他者の把握ですが、これは単純に、ここまでで把握した自己内自己の内容を自己内他者の内容だと仮定してみるということをしていきます。

つまり、自己内自己の内容をそのまま自己内他者に移し歸というか、転写をしてみるということです。もっと簡単に言えば、他者のことを「自分と同じ存在」だと定義してしまうわけです。例えば自己内自己の内容として、AとかBとか、Cとかいう要素があったら、自己内他者もまったく同じ要素を以ていると仮定していみる。

まったく同じ要素ですから、自己内他者はA、B、Cという要素を持つことになりますが、ここでは話を分かりやすくするために、自己内他者が持つAの要素のことをA´(エーダッシュ)じこ内他者が持つBの要素のことをB´(ビーダッシュ)、自己内他者が持つCの要素をC´(シーダッシュ)と呼ぶことにします。ところで先ほど言葉の定義として書きましたが、自己内他者とはあくまでも自分の中で想像している自分以外の誰かのことです。

※ステップ1₋自分の自己内自己の要素を自己内他者の要素であると仮定してみる

自分の思考の枠組み

自己内自己ーA-B-C→転写→自己内他者-A’B’C’

ですのでどれだけ自己内他者を理解したところで、実際の相手である他者についての理解にはなりません。つまり、先ほどの例でいえば、実際の他者が以ている要素はA’B’C’ではなくて、1、2、3だったりするわけです。ところが、この1、2、3という要素は、自分では理解するおkとができません。そこで先ほどのA’(エーダッシュ)、B’(ビーダッシュ)、C´(シーダッシュ)を使うのです。このA’B’C’を使うのです。このA’B’C’を使って相手に聞いてみる。つまり、「私はあなたにはA’という要素があると思っているんですけど、実際はどうなんですか?」と聞いてみるのです。

その結果、相手が「はい。その要素を以ています」と返事をしてきたとしたら、その内容をその他者の情報として受け止めていく。相手が「いいえ。私はその要素を以ていません」と返事をしてきたら、やっぱりその内容をその相手についての情報として受け止めていく。つまり、自分が把握した自己内自己の要素項目をチェックリスト代わりに使って、他者の理解を深めていくのです。

というのも、他者のことを理解しようとするならば、自分と他者との間にコミュニケーションのプロセスが起こる必要があります。けれど、コミュニケーションのプロセスで問いを発するためには、こちらから問いの内容を提供しなければんらないわけです。その意味で、自己な自己の要素項目というチェックリストがあれば、簡単に最初の問を発することができる。こうして、ヒアリングをすることができた結果、相手が持つ要素というものがじこ内他者の内容として反映されていくのです。

ステップ2、相手に「聞いて」「答えを聞くこと」で自己内他者の情報を他者の情報提供に近づけていく

実際はこうかもしれないけど・・・・

自己₋ABC、A’B’C’→他者、1、2、3

他者に聞くことでA’B’C’のリストが書き換えられていく。

実は今ご紹介した手法の土台には、企業向けのコンピューターシステムを開発する時の発送がありました。つまり、システムを開発するときには、ヒアリングを正確にできるかどうかということが大切になるのですが、このヒアリングは、自己内自己を正確に把握している人間がやると正確にできるのです。

つまり、自己内自己を正確に把握している人間にはふたつの利点があるということです。ひとつめは、相手に問いを発する基になるチェックリストを持っているおkと。もうひとつは、自己内自己と自己内他者が違うものであるという認識があること。このふたつめの認識があるために、自分の主観を先行させるのではなくて、相手の言っていることを正確にとらえようとすることができる。その結果として、相手の言っていることを正確にヒアリングすることができる。

企業向けのコンピューターシステムの開発に関して言えば、私はそもそもクライアントさんである企業は、システム開発会社に自分たちの中身の整理を依頼していると思っています。ということはつまり、クライアントの企業さんの中では、自分たちの中身が整理できていないということなのです。そこに、こちらが何のチェックリストも持たずに話を聞きに行っても、結局、どんなシステムを作ればいいのかが分からないということになりがちです。

その結果、クライアント企業さんはシステム開発会社さんに「自分たちの中身の整理」を求めているにもかかわらず、システム企業さんはシステム開発会社さんに「自分たちの中身の整理」を求めているにもかかわらず、システム開発会社さんはそういうことをまったく理解せずに、ただただ、クライアントさんが口にした内容をシステムに落とし込もうとするわけです。すると、クライアント企業さんの中に存在していた本来は不必要な作業も全部繁栄されたシステムが出来上がります。当然、オーダーメイドになりますから費用も掛かる。

その結果、クライアントさんとしては、業務をスムーズにするためにシステムを導入したのに、結局流が何も変わらないどころか、システムを使わなければならないという手間だけが増えるということになる。システム業界ではここ20年ほど、この流れは変わっていないように感じます。こういう状況がある一方で、相手にヒアリングすつためにチェックリストを持っていて、しかも相手の実際のところを知ろうという意志があると、相手のことを知ることができます。その結果として、相手が何を求めているかを知ることができる。相手が何を求めているのか、どんな理由でそれを求めているのかが分かれば、相手が求めているものを提供することは比較的簡単です。その提供の仕方を設計する方法については後述しますが、私が言いたいのは、このような理解をするためには、ビジネスというものの前提になる哲学のようなものが必要なのではないかと思うのです。

例えば私にとってのビジネスの前提は、顧客の満足度も、商品サービスと提供する側の満足度もどちらも100%でなければならないというものがあります。一方で、この資本主義の社会では、多々追えば100%の顧客満足とどいうのはありあり得ないように思われている。だから「ここは譲ろう」とか、「ここは押し通そう」というような考え方が主流になって、相手のことを理解しようという方向には意識が向かないのだと思います。ではなぜ、100%の顧客満足度というのはありあり得ないと考えてしまうのか。なぜ、顧客もこちらも100%の満足をすることはないと考えてしまうのか。それは、つまり、「満足に対する定義」ができていないからだと思うのです。「自分の満足とは何ぞや」という定義も、「顧客の満足とは何ぞや」という定義もできていない。

もうお分かりのとおり、自分の満足とは何ぞやということが定義できていない背景には、自分に対する認識の不足があります。つまり、自分の欲望を網羅できていないのです。これは本書で「自己内自己のナレッジモデリング」という言葉で紹介してきた内容です。一方で、顧客の満足とは何ぞやということが定義できていない背景には、一件一件の顧客に対して、その要望を正確にヒアリングできていないという事実がある。

逆に言えば、本書でご紹介してきたようなプロセス、つまり、まず自己内自己の把握をして、その内容をチェックリスト代わりに使って顧客にヒアリングをしていくというプロセスを使えば、自分たちも顧客も100%の満足を手に入れることができる可能性があるということでもあります。

実際に街に出てみれば100%の顧客満足を目指すというスローガンを目にすることもありますが、つまり目指すという言葉を使っている段階で、それが可能だとは思っていないということも見て取れます。そうではなくて、100%の顧客満足が当たり前であり、同時に自分たちが100%満足することも当たり前であると考えていただければと思いますし、そのための手段もあるとご理解を頂ければと思っています。(七沢)

※なんのための契約書か

・ビジネスにビジネスに対する根本的な理解
私はコンサルタントとして、さまざまな企業さんのビジネスの現場に立ち会うことも多いのですが、実際に自分が仕事をしていくうえで「あれ?おかしいな」と思うようnあことにもたくさん出くわします。おsのひとつが契約書の内容です。今では企業さんの法務部門にもアドバイスを差し上げることがありますが、最初のうちは私もそれはそれはひどい扱いを受けていたことがあるからです(笑)

今、ビジネスというものの善手になる哲学に対する定義ができていないのでhないかというお話がありましたので、それに関連するお話としてひとつご紹介してみます。さて、私がコンサルタントとして活動するときには、有限会社という組織を使っているのですが、例えば上場企業さんからのご依頼をお受けするときには、先方からの契約書を送ってもらうことが多かった時期があります。

そして、この契約書の内容というのが、ものすごく一方的な内容だったりしたのです。例えば「先方からはいつでも契約を解除できる」という項目があるにもかかわらず、こちらからの契約解除については何の記載もないというような具合です。もちろん、先方としてはただ単に雛形の契約書を送ってくださっただけだと思いますが、それはつまり、そのほかの企業(特に中小企業)さんとの契約に際しても同じようなスタンスで臨んでいることの証でもあります。

私がそういう契約書を手にしたときには「うちかrまお契約解除できるように項目を足してください」という話をしていたのですが、このようなことを言うと先方の法務部さんは「えっ!」と言ってものすごくびっくりされるのです。「それはできません」とか「じゃあ、契約はできませんね」とか「それは困ります」とか。そういうやり取りを経て、契約諸を取り交わすということがしばらく続いた時期がありました。私はここに、ビジネスというものをどうとらえるかという理解の違いがあるように感じます。どういうことかというと、そもそも最初に届いた契約書の目的というのは、先方の企業さんが自分の身を守ることに主眼を置いた結果として出来上がった内容であったのではないかと思うのです。不測の事態が起こった時に、自分たちにだけは被害が及ばないようにしよう。そういう意図が見える。もちろん、企業の法務部さんというのは、「不測の事態が起こった時に会社を守るための契約書を作ること」が仕事であるという側面は必ずあります。しかし私からすると、それを前面に出していくというビジネスの仕方に、将来の発展性はあるのかなと思うのです。

私はそもそも契約書というものは何か不慮の自己が起こった時にも、関係する各社の関係が悪くならないようにするために作るものだと思っています。なぜなら、もしも何かがあった時にもお互いの関係が悪くならないようにしておけば、将来のどこかの時点でまた一緒に仕事をするチャンスが訪れるかもしれないからです。ところがもしも、自分だけを守ろうとしていたらどうなるか。結果として、その時には自分は被害がなかったとしても、相手との関係は終わってしまうと思うのです。そうすると、もう将来その相手と一緒に仕事をする可能性はなくなります。私からすると、これはとても大きな損失だと思うのです。私が話題にした雛形契約書は、とにかく目先の被害や損失をなくしたいという内容だと言えます。この場合には、金銭的な被害はないかもしれないけれど、将来の可能性や、もしくは相手からの信頼という、目に見えない対価を支払っている。もちろん、規模の大きな会社さんから見れば、仕事を依頼する先は掃いて捨てるほどあるという論理もあるのかもしれませんが、それが本当かは疑わしいと思うのです。一方で、そんなに規模が大きくない企業さんの中にも、先に書いたような雛形契約書を使っているところもあります。これはこれですぐさま死活問題に直結する可能性もあるわけで。

そういうことをどこまで考えているのか。これは、どちらの世界を見るかという視点の問題でもあり、その視点からでてくる意志の問題でもあると思うのです。つまり、「自分が損をするんじゃなかろうか?」という世界を見ているか、「自分が得をするためには相手も解くをしないといけない」という世界を見ているかの違いだと言えるでしょうか。ここではビジネスの内容についての一般的な理解について、私なりに感じたことを書いてみました。一般的だとされている内容とは少し違う内容を提示したかもしれませんが、ひとつの選択肢ではあると思って、お役立ていただけるようであればとてもうれしいと思っています。

第7章 自分の意志を提示する

-100%の顧客満足ですか。確かにこれが可能だと思っている人は多くないですよね。

そうですよ。だから、いつも心の中にモヤモヤが残っているというかね、

-うーん。この例で言うと、システム開発会社さんというのは、相手の要望をしっかり確認できたという確信がないから、いつもドキドキしながらいs事をしないといけないわけで。

そう。相手の言うことは聞いてはいるけど、その内容が何を指すかわからない。その結果、「理論上、機械的にはなんでもできますよ」という受け答えになってしまうというかね。

-企業さんはかといって、どうすることもでmきないというか、そもそも自分で自分の整理ができないからこそシステム開発会社さんに依頼をしているわけだから。

そうですね。こういう関係の結果として、そのシステム開発会社さんが以ている一番いいものが漏れちゃっているというね。

-あー、痛いですね。とても痛いですね。でもそれ、コンサルタントさんの業界でも起こってますよね。

ええ、起こっているんです。

-ふむ。まぁ、そういう状態を避けるためには、自己内自己のナレッジモデリングをしたうえで、相手にたいしてヒアリングをしてみましょうということですよね。

そうすれば相手が何を望むかわかるから。あと一條さんのお得意の方法で設計図を描いていけばいいわけでしょう?感情論理を逆算していくというやり方でね。

-そうですね。相手が何を欲しいのかが分かれば設計図を描くことは簡単ですけどね。と言いますけど、これが結構難しいみたいですよ。

ああ。それはいわゆる意志の問題でしょうね。ビジネスに何を求めるかという意志の起き方の問題ですよ。

-ん?意志ですか?もう少し詳しくお話いただけますか?

はい。

※「売る」「売れた」「買った」「買ってもらえた」

自己内自己のナレッジモデリングもできた。そのうえで相手に対してヒアリングをしてみた。その結果、相手が何を望むかが分かった。ここまで来ても、ビジネス上の成果が出ないことがあります。これはなぜか?私はこの問題をふたつの段階でとらえています。ひとつ目の段階はそもそも自分の意志を提示することができているか。ふたつ目の段階は、意志と結果を分けてとらえているかということです。

まずひとつ目の段階である「自分音意志を提示できているか」ということですが、なぜ自分の意志を提示する必要があるのか。なんでもそうですが、何かの物事を起こすためには「自分がこう行きます」「こうやります」という意志の提示が必要になる。そうでなければ、まわりに流されてしむことになりかねないからです。まわりに流されている状況では、自分が望む成果を手に入れられるかどうか非常に不確かなことになる。l
これは当然、ビジネスで成果を上げようとするときにも同じです。ですので、自分はどんなことをするのかという意志の提示が必要になるわけです。私はこの意志のことを「主体意志」と呼ぶわけですが、この意志をまず確定できているか。ビジネスで成果を上げようとするときにはこれが非常に大切になると思います。

ちなみにこの内容は何でもいいと思うのです。例えば、「相手を幸せにする」という意志でもいいし、あるいは「たくさん物を売ろう」という意志でもいい。いずれにせよ、自分の意志を確定さえすればいい。この、まず自分の意志を提示することの大切さは、伯家心頭の言葉では「置手」という言葉で伝っています。それに対応して成果を受け取ることを「幣手」という言葉で表すのですが、成果を受け取るためには意志を提示しなければならないということが、ある意味で、コミュニケーションの神髄として、伝わっている。この意志は自己内自己のナレッジモデリングをしていく中で見つかっていくものだとも言えますし、その延長戦上にあるものだとも言えますが、まずは意志を確定する必要があるのだたお理解していただければいいと思います。これが第一段階目です。

自己内自己のナレッジモデリングもできた。そのうえで相手に相手に対してヒアリングもしてみた。その結果、相手が何を望むかが分かったし、自分の意志も提示した。それなのにビジネスで成果が出ないとしたら、ふたつ目の段階を検証するといいかもしれません。ふたつ目の段階とhあ、「意志と結果を分けてとらえているか」ということです。なぜなら、意志と結果を分けてとらえていない人は意外と多いからです。具体的に言うと、こういうことです。例えば「商品やサービスを売ろう」という意志を持ったとします。

この意志の内容自体は何でもいいわけですから、これが良いとか悪いとかいうことはありません。ですがこの次に、「この意志が達成できたかとうかはどうすれば分かりますか?」と質問されたときに、「それは売ることです」という回答をするひとがものすごく多いです。しかし、これはやっぱり意志なのです。つまり、「商品やサービスを売ろう」という最初の意志に対して、その意志が達成できたかどうかを確認する方法は「売ることだ」といって、意志の内容を答えている。つまり、意志で意志を追っているというか、意志がグルグルと巡ってしまっていることになっているわけです。こうなると、先に書いた自己内自己とじこ内他者との際限のない対話のループと同じことで、この中から抜け出せなくなってくる。当然のことながらビジネスの成果が出るはずがありません。

ではどうすればいいのかというと、自分の意志が達成できたかどうかを確認する方法をしっかり考えてみるといいのです。例えば「商品やサービスを売ろう」という最初の意志が達成されたかどうかを確認する方法としては「その商品やサービスが売れたかどうか」を見るという方法があります。こうすると、商品やサービスが売れていれば、意志が達成されたことになりますし、商品やサービスが売れていなければ、意志が達成されていないことになります。いずれにしても、意志を意志で追うようなことはなくなる。このようにしてグルグルの中から一歩外に出てみることが大切だと思うのです。ぐるぐるの外に出れば、状況に対する理解もさらに深まります。

どういうことかというと、例えばあなたが「売る」という意志を持っていたとします。そしてその意志が達成できたかどうかという結果は「売れたかどうか」で判断できるとします。こうなると「売れたかどうかという結果は「売れたかどうか」で判断できるとします。こうなると「売れたかどうか」という客観的な指標を手に入れることができる。「売れたかどうか」を考える先には「売れた」イコール「誰かが買った」という理解に達するかもしれません。「誰かが買った」という理解の先には、「買ってもらえた」という理解があるかもしれません。そして、「買ってもらえた」という理解の先には、「誰かが何らかの理由でそれを買った」という理解があるかもしれません。

今ここでは「商品やサービスを売る」という意志に沿って書いていますが、この場合、結局財布のひもを開いて商品を購入するのはお客さんですから、最期には「そのお客さんはなぜその商品を買ったのか」という理解にさかのぼることができるということになります。そして、この「お客さんがその商品を買った理由」は、先の章でご紹介したヒアリングの手法を使うことで確認することができるのです。つまりこれは、最初に自分の意志を提示しておけば、ヒアリングを通じて手に入ったお客さんの情報を使って、自分の意志を達成するための設計図を描くことができるということでもあります。

ゴルフの世界で、初めてグランドスラムを達成した村上隆さんという方は、まさにこのようなやり方で、ゴルフをプレイしていました。どういうことかというと、まず最初にボールがビンの中に入った状態から考えていくのだそうです。今、こうしてボールがビンに入っているということは、その前の段階ではここにボールがあったはずであり、ということはその前にはここにボールがあったはずであり、という具合にして逆算をしていく。そしてすべての逆算が終わったところで、あとはその逆算した地点にボールを運んでいくということをやっていた。

これはビジネスの営業という側面で言えば、すでに売れたというところから逆算していくということと同じです。それが感情論理の逆算をするということであり、お客さんの情報を使って、自分の意志を達成するための設計図を描くということなのです。
七沢

※効果のない「効果的な営業トーク」

今、「売る」という意志の結果を判断する指標を何にするのかというおお話がりました。その中では「売る」という意志が達成できたかどうかという指標を「売る」という意志に求めるということが起こってしまいがちだというお話がありましたが、私も仕事の中で、これとよく似た状況に出くわします。それは営業研修での出来事です。私はいろいろな業種の会社さんで営業研修をさせていただくことがあるのですが、どの会場に行ってmお毎回ひとりは同じ質問をされる方がいらっしゃるのです。
たいていの場合、その質問をしてくださる方は営業の成績が伸び悩んでいることが多いのですが、その質問というのはこういうものです。「私は効果的な営業トークをしているのですが、成約が取れないんです。どうすればいいでしょう?」そして、この質問を聞いたまわりの参加者さんの多くは、うんうんとうなずいている。そこで私が、ホワイトボードにこの質問を書き留めて、もう一度内容を復唱します。


「効果的な営業トークをしているのですが、成約が取れない」この質問でいいですね?と確認すると、勢いよくうなずかれる。そこで、しつこいですが、もう一度同じことを確認します。

「効果的な営業トークをしているのですが、成約が取れない」この質問でいいですね?と確認すると、また勢いよくうなずかれる。まわりの方も、うんうんとうなずかれています。そこで本当にしつこくて恐縮ですが、もう一度確認する。このあたりで、まわりの方の中には「あっ」というような顔をされる方がでて来ます。が、質問したご本人は早く答えを教えてほしいと、けっこうキラキラしたまなざしを私に向けてくださり続けています。そこで私がホワイトボードに書き加える。そこで私がホワイトボードに書き加える。「効果的な営業トークをしているのですが、成約が取れない」ということは、「効果的な営業トークをしているのですが、効果がない」ということですね。

そう質問すると、もう、だいたいまわりの人たちは、「あ~」という顔をして笑い始めます。ご本人はというと、この時点で氣づく方もいれば、そうでない方もいらっしゃる。そこで私が話を続けていく。効果的なトークをしているけれど、効果がない。「効果的」という言葉の意味は「効果gある」という意味ですよね、と。ということはつまり、質問の文章は、「効果があるトークをしているけれど、効果がない」というものになります。

「効果的なトーク」と「効果のなさ」というのは正反対の内容です。では、どちらが正しいのでしょう?実際にはこれは、正しい、町がテいるという問題ではなくて、どちらを自分にとっての現実にしたいのでしょうか?というおお話なのです。つまり、「お客さんの理解が足りないから、こちらが効果的なトークをしているのに買わないのだ」という解釈をすることもできる。一方で、成約が取れないということは、つまり効果がないということで、ということはその時に使っていたトークというのは効果的なものではなかったのだという解釈をすることもできるかもしれません。どちらの解釈もできるわけですが、どちらの解釈をしたですか?ということなのです。

もしも成約を取ることが目的なのであれば、成約がとれるようトークの内容を変えればいいだけのことです。別に成約はいらなくて、「そのトーク」を使い続けたいのであればそれでもいい。ただい、自分がどちらを得欄だのかは自分で把握しておく必要があります。このようなお話をするわけですが、たいてい、質問した方は照れくさそうに笑って、こう言われます。「私が効果的なトークと呼んでいた内容は、私が「効果的だと思い込んでいたトーク」なんですね」と。

なんだかこうして文章にすると分かりきったことのように見えるかもしれませんが、実は実hあ、このような認識というのはいたるところにある。その一つが、この章のお話にあった、「売る」という意志が達成できたかどうかという指標を「売る」という意志に求めるということであったり、今私がお話ししたような効果的な営業トークということであったりします。私も含めて、人間というのはやはり、このような思い込みをしがちなものだと思うのです。その意味で、自己内自己のナレッジモデリングをしていくということは、思い込みから自由になるためのひとつの方法になるかもしれません。営業トークについて考えるときには、またこの話も思い出していただければと思います。

第8章 強い意志と弱い意志


-ビジネスの成果として何を求めるか。それにはまず自分の意志がどこにあるかをしらなければならないですよというおお話ですね。

そうですね。それに意志でおっちゅとぐるぐるしちゃうから。

-そう考えると、いろんなところでぐるぐるぐるぐるしてるんですねぇ。

うん。だからね、それがビジネスで成果が出ない理由だと思うんです、私は。

-なるほどね。意志ですか。

そうですね。まぁ、歴史的には意志の強いものが結局支配者になるというか、まあもちろんインフラも整ってなきゃいけないんだけど、結局は意志の強い者が勝つというような話があるしね。

-そうすると結局、意志が津陽ないと成果は出ないという風にも聞こえるんんですけどね。すると、「私は意志が弱いからダメだ」とかね、そういう発想になっていきかねないと思うんですよね。

それは意志というものには強い意志と弱い意志とがあるからだと思っているというだけであって、実際はそんなことはないと思うんですけどね。

-ん?強い意志と弱い意志がないっていうのは面白いですね。もう少し詳しく聞かせていただきますか?

じゃ、意志の話をしましょうkあ。

お願いします。

※成果を手にする近道
先ほどの会話では歴史的に見たときにはやはり意志の強い人間が勝ってきたという事実があったというお話をしました。その部分だけを聞くと「私は意志が弱いからダメだなぁ」と思う方もいらっしゃるかもしれません。実際に今の世の中では、意志の強さと弱さというものを、先天的なものとして見ている傾向もあります。これは何も現代に限った話ではなくて、歴史的にもその傾向がある。

例えば性格分析だったり、心理分析だったりというのも、そういう意志の強さや弱さが先天的に決まっているという仮説が前提になっているからです。ただし、その結果はというと、「あなたにはこんな傾向がある」ということをただ言われるだけになってしまう。これはあまり意味がないと思うのです。そもそも、もしも意志ンお強さや弱さが先天t系なものであるとすると、意志の話を持ち出した時点で「ビジネスで個人が成果をあげる方法論」はない、という話になってしまいます。

しかし私はそうは思いません。だからこそ、この本の執筆依頼をお受けしたわけですし、今、意志の話をしているわけです。そこでまずご理解を頂きたいのは、私が先ほどから「意志」という言葉を使ってお伝えしているない湯です。私はこの「意志」という言葉を、主体意志という意味で使っています。つまり、この「意志」とは、主体である自分が自分で自分に命令している内容であるということです。

では、「意志が強い」というのはどういうことかというと、自分の中の欲望などがすっきりと整理されていて、方向性がはっきりしている状態であるがゆえに、自分が自分で自分に下している命令がすっきりと聞き取りやすく、そのために自分自身がその内容に従いやすいものになっている状態のことだと思うのです。

こういう理解をしていくと、「意志が強い」とか「意志が弱い」とかいうのは便宜上の表現であることが分かってきます。つまり、「意志が強い」というのは自分の中の欲望が網羅され、かつすっきりと整理されている状態であり、「意志が弱い」というのは自分の中の欲望が網羅されておらず、したがって整理もされていない状態である。このようにとらえると、「意志が強い」とか「意志が弱い」とかいう言葉に惑わされなくても済むのではないかと思います。

ではこの意志の強さを獲得するためには、大きな努力が必要なのかというと、そうとも思わないのです。なぜかというと、自己内自己を網羅してしまった段階で、それらの内容は半ば自動的に整理されていくものだからです。こうして、自分の世久保湯を網羅して整理ができてしまえば、どこに進むかはおのずと決まってくる。なぜなら、生きているということ自体が、より良い状態になっていこうという働きを持っているからです。ですので、意志が強いとか意志が弱いとかいう言葉に振り回されるのではなく、じこ内自己のナレッジモデリングをしていくというのが、成果を手にする近道ではないかなと、私はそう思っています。
七沢

第9章-ビジネスにおける純粋性

-意志が強い、意志が弱いということが先天的なものではないというのはものすごく可能性が広がる話ですね。



うん。でも実際には、強い意志とか弱い意志というものはないと思うんですよね。ある意味で、ひとりの個人の中にも意志が強い部分と意志が弱い部分とがあるわけでしょう?



-そうですよね。それってつまり自分の中で欲望と言われるものが整理されている分野ではすごく強い推進力を得ることができて、一方で自分の中の欲望が整理されていない分野ではどうも推進力が出ないというようなことが起こっているということですよね。



だからひとりの人間の中にもいろいろな面があるじゃない。



-うん。言われてみればそのとおりで。でもそれをやれ「なんとかタイプ」だとか、「なんとkぁパターン」だとかいう風に分類しようとするから無理が出てくる。つまり、実際の自分が持っている要素というのが見えなくなるのではないかと。



私はそう思いますよ。そういう意味で言うとね、易の六十四卦の一つに天籟无妄という卦がるんですよ。

-ほう。卦ですか?

そうそう。この天雷无妄という卦は、ものすごく強い卦なんですね。

-ほう。

ものすごく弱く見えるのに、ものすごく強いという。だからビジネスで成果を上げようというときには、この卦の内容が参考になるというかね。自分の在り方の参考になると思うんですよね。

-ん?ビジネスの成果と卦ですか。

ちょっとつながりが分かりませんが、どういうことかおお話いただけますか?

-はいはい。これは結構面白いんですよ(笑)

※純粋性と心の痛手
今、人をというか自分自身をタイプやパターンに分類しようとすることで、実際の自分が持っている要素が見えにくくなるのではないかというお話がありました。というのも、タイプ分類やパターン分析というものの背景には、このタイプはこうあるべきだとか、このパターンだったらこうあるべきという、いわゆる縛りがあるからです。縛りというテーマで言えば、これは先にお話ししたような理想の自己有像というものとも共通点があります。

つまり、それらのたいぷやパターンや理想像が既定する枠に自分をはめ込んでいかなければならないということになるからです。こうなると、自分自身の良さというものを認識することもできなくなります。

この一方で、こういう枠から完全に自由でいるという在り方もあります。その在り方のことを、易の六十四卦の中では天雷无妄という卦として表しています。これはどういう状態を指しているのかというと、純粋性というか、生き方として「純粋に在る」ということです。では純粋性のメリットは何かというと、心のエネルギーとしてとても強いものを持っているということがあげられます。一方で、今の世の中では純粋であるというのは、ある面では弱いとみなされることも多いです。つまり、純粋であるということは、沢山の知識や方法論を持っているわけではないというおkとになるからです。すると、やっぱり弱いのではないかと思われがちになる。とろこが、物事に対するときの態度というかスタンスということで考えると、純粋であるということは一番安全であると言えるのです。

なぜかというと、純粋であれば、もし何かを間違えたとしても取返しがきくからです。つまり、純粋に生きるということは、心の痛手が少ないということでもあります。例えばですが何かをしようとしたときに、自分で「これはうまくいかないだろうなぁ」と思いながらやっていると、結果としてうまくいかなかったときには痛手が大きいわけです。「ああ、やっぱりなぁ・・・」というような感じになって、二重にショックになる。だけど、そういう先験的な解釈なしに、純粋にやってみた内容というのは、たとえそれがうまくいかなかったとしても、そんなにショックには感じないわけです。仮にうまくいかなかったという「結果」からは絶望というものを味わったとしても、その絶望がまた次のステップになるというか、むしろ、そういう経験を知識として取り込んでいくことができる。

もちろん、こうして経験を通じてできていった知識が、先験的な解釈を生んでいく面もありますから、自分で意識していないとずっとこの純粋性の中にいることはできないと思います。だから一般的には、若いうちには純粋性の中にいるけれども、年齢を重ねていくうちに純粋ではいられなくなって、あらゆる物事の中に先験的な解釈を見つけたりしてしまう。例えば、つかまり立ちをしようとしている赤ちゃんが、つかまり達をしたんだけど、やっぱりコテンと尻もちついちゃったというときに、「もう立つのは無理だ」といってあきらめることはない。ところが大人になっていくと、同じようなことが起こったときに、簡単にあきらめるようになってしまったりします。ビジネス現場で例えば営業マンがどこかの取引先に見積を出して断られたときに、もう見積りが出せなくなるというケースも考えられる。

そして社内では「あの会社さんはもう行っても駄目だから」というような話をして、他の人も「ああ、そうなんだ」と理解してしまったりします。ところがその会社に新しい営業マンが入社してきて、その人が行ったら契約が取れちゃうことがある。その営業マンに「契約、取れましたけど」と言われて、「ええっ!なんで取れたんだ」ということになったりしますし、その結果、なぜか怒りの矛先がその新しい営業マンに向かっていって「あいつはけしからん」となっていったりする。今、いろいろな会社を見ていると、社内でなんだか雰囲気がおかしかったりするような会社には、だいたいこういうことが起こっているように感じます。

いずれにしても、情緒も自己の発達過程で、必要な情緒の種類が移り変わっていく。だから、適切な情緒を適切なタイミングと方法で使う必要があるわけですけれど、例えば競争心というような情緒を、のべつまくなしに使っていると、本当に社内がギスギスしてきたりしまう。それは発達段階のステップを間違えているということだとも言えます。話を天雷无妄という卦に戻すと、この卦の示す内容である純粋性というものを意識しておくと、ビジネスでも成果につながりがりやすいと思うのです。

天雷无妄という状態は、ある意味ですべてを客観視している状態だともいえるわけです。つまりそこには、これが良いとか悪いという判断がない。判断をしていない限り、何が有っても別に痛手を被ることはありません。もちろんそのときには、他党としてペタンと尻もちをついちゃうという、まわりの人から見たら失敗という風に見えることもあるかもしれないけれど、別にその人本人gはそれを失敗とは見ていない。かといってちゃんと立てたとしても、それをタ成功とも見ていない。もっと淡々としているわけです。だからこそ、タイプ分類やパターン分析からも自由でいられるとも言えると思います。そういう意味で、自己内自己の網羅をした後には、こういう段階に近くなるかもしれない。そう思ってご紹介しておきます。
(七沢)

※心安らかなビジネスのために

-天雷无妄っていうのは面白い卦ですね。

そう思うんですけどね。

-ある意味、この天雷无妄という状況は、自己内自己のナレッジモデリングというか、自己内自己の内容、それは欲望だったりすると思うんですけど、そういうことを網羅していった先に出てくるものという感じがしますね。

そうですね。だから、成果というものを生み出す意志にもふたつあってね。自己内自己の内容をすべて網羅したうえで自然発生的に出てくる意志と、自分が何かを「これだ!」と確信した時に出てくる意志とがあると思うんですよ。

-はいはい。

それでこの「これだ!」という確信を基盤にした方向性というか意志にもそれなりの強い力がある。ある意味では自己内自己の中身を網羅していなかったとしても、それらを網羅した時と同じくらいの推進力を持つこともあるわけです。

-うんうん

ですので、信じる者は救われ鵜ではないですけど、革新というものに至れれば、それなりの力が出る。ただし、自己内自己あるいは自分の欲望というものを網羅しない段階で、革新だけで成果を出した人というのは、どこかで失敗する可能性があるわけでね。なぜなら、自分の欲望の中には二項対立的に相反しているものがあるわけですから。その構造を理解しないままにどちらかの方向に突出したとしてもいずれは自分自身に引き戻されることになりますよね。

-そうですよねぇ。また、こういう確信に従っている場合には、精神的にどこか安定しない部分も出てきますしね。

うん。ですので、可能であればやはり、自己内自己や自分の欲望を網羅して整理するところから始めていただきたいと思うんだけどね。

-確信があれば成果はデルかもしれないけど危ないよと。

うん。

-なぜかというと、そこにさっきの天雷无妄のような内容はなくて。

単なる無謀になりますよと(笑)

-字も違いますよと(笑)だから、あなたがもしビジネスで成果を出したいと言うんだったら、意志というものの力が必要なことが分かったうえで、自分の中にある主体自我の内容を網羅していってくださいねと。

そうです。

-その中で、ひょっとしたら、「あ、これだ!」って、確信できるものがあるかもしれないし、そこに向かって進めば成果が出ることもあるかもしれないけれど。実はちょっと危ないところもあるので、可能であればじこ内自己の網羅の作業は続けていってくださいと。

そうですね。その先には天雷无妄というような状態があるかもしれないし。その視点から見ていくと、一時の成果や悩毎や、契約が取れた・取れないとかそういうところではないところで納得できると思いますよと。

-すると心安らかにビジネスもしていけると。

そう思うんだけどね。

-深いですねぇ。

日本人はなぜうまくいくのかビジネス編-1-4、七沢賢治、一條仁志

2021-01-02 12:11:46 | 日本人はなぜうまくいくか
日本人はなぜうまくいくか―ビジネス編-

はじめに

日本人がビジネスで成果を出すにはどのような方法があるのか?私の前著「なぜ、日本人はうまくいくのか?」が発行されて以来、様々な感想を頂くようになりました。「日本人の可能性が分かった」という感想や「今までモヤモヤしていた言霊についての理解ができた」などという感想と共に、「日本人がうまくいく方法をビジネスに応用することはできないのか?」という質問も多く頂いています。

私は前著の中で、今の世の中の問題点と、それを解決できる可能性を持つ「日本人の特性」について書いたわけですが、当然それはビジネスの現場でも使えるものだと思っています。それどころか、私が前著を各きっかけのひとつとなった「ナレッジモデリング」という手法自体が、私がビジネスの現場でより多くの成果を上げるために開発した手法でもあります。

一方で、ほかの分野と同様に、ビジネスの分野でも今の日本は厳しい環境に取り巻かれているとも言えます。せっかく今の問題を打破するためのツールを持っている日本人が、そのツールを使いこなせないどころか、問題の波にもみくちゃにされているという現状がある。

そこでこの本では、ビジネスの分野で、日本人が成果を出していくための方法を書いていこうと思います。ところで、もうお気づきの方もいらっしゃるとおり、これからお伝えする方法は決して日本人だけにしか使えないものではありません。

きちんとないようを理解して、自分の中に取り込みさえすれば、どんな人種の人でも、どんな国籍の人でも使える内容だとおもいます。ではなぜ「日本人はうまくいく」というような表現をしているのかと言えば、それらの内容を理解したり、実行するときには、日本という文化の中で育ち、そして日本語という言語を日常的に使っている人たちの方が、そうでない人たちよりもやりやすいという側面があるからにすぎません。

ですので、この本音内容を「日本人の特殊性」を理解するためではなく、「あなたがビジネスの現場で成果を出す」ための方法をつかむために活用していただきたい。そう思っています。さて、今回のテーマは「あなたがビジネスの現場で成果を出すこと」です。その目的かrあ言えば単なる理論をお話するよりも、ビジネスの現場での具体的な事例や現状、そして今すぐ使えるノウハウもおつてしていければより理解がしやすくなると思います。そこでこの本の執筆にあたっては、「助っ人」をお願いすることにしました。今回の助っ人は、コンサルタントさんとしていろいろな企業の売り上げアップや集客のアドバイスをしている一條仁志さんでうs。

彼には私の以前の書籍で、私にインタビューをしてもらったこともあります。そのような時に彼の話を聞くにつけ、彼はビジネスの現場で使えるノウハウや事例をたくさん持っているだけでなく、ビジネスの分野に関して非常に鋭い空鶴のようなものも持っていらっしゃる人だと感じます。そもそも、私は各種の研究を主な活動にしています。そのせいか「七沢は研究を専門にしているかr、あ売り上げや利益ンいついてはあまり考えることはないだろう」と思われ鵜ことも多いのです。では、私が売り上げや利益といったいわゆるビジネス上の成果という物に対して無頓着かというと、けっしてそうではありません、なぜなら、ある種の研究を続けていくためには、多額の資金が必要になることも多いからです。

つまり、私がこうして研究を続けてこられた背景には、売り上げや利益を確保するための仕組みがある。そのことを私に合ってすぐに見抜いたのが一條さんでした。

また彼は複数の企業さんに企業さんに対して、売り上げアップや集客のアドバイスをするコンサルタントであると同時に、自身も複数の会社を経営する経営者でもあります。彼のノウハウは現在も進行形でさまざまな企業さんに使われていて、+の成果を出している。ということはこの本の中に彼のノウハウも入れていけば、より約二立つ内容になるのではないか。そう思って、彼にノウハウと事例の提供を依頼したところ、快く引き受けてくださいました。ですので、この本の中には私の研究内容と、一條さんの実践事例が含まれています。ふたrちの人間が、それぞれの専門分野の中で見つけたr値、磨いたり、顕彰したりした内容です。それらn内容をこの本でお伝えする目的はただひとつ。「あなたという個人に、ビジネスの現場で成果を出していただくこと」です。ぜひ、あなたのお役に立てていただければと思います。それではさっそく始めましょう。

第一部 ビジネスで成果を出すため

第1章 ビジネスがうまくいく要素

-今日は「なぜ、日本人はうまくくのか・ビジネス編」ということでしたよね。つまりは「なぜ、ビジネスがうまくいくのか?」というお話になると思うんですけど。

はい。だから一條さんに来てもらってます(笑)

-お役に立てばうれしいですが(笑)ところでね「ビジネスがうまくいく」と言った時にね、なにをもってうまくいったと判断するかという基準というものが必要になると思うんですね。

そうですね。そういう内容にはいろいろとありますよね。

-はい。例えばですけど、ある人にとってビジネスがうまくいったかどうかの判断基準になるのは「売上の額」かもしれないし、別の人にとっては「期日までに必要な資料を集めることができたかどうか」かもしれない。

人によっては「営業で成約をとる」ことかもしれませんし、「他社さんとのタイアップ案件をまとめあげる」ことかもしれませんよね。

うん。

-ほかにもいろいろあって。例えば、「スタッフさんのモチベーションをキープすること」「広告から問い合わせを増やすこと」「転職希望者の適正を見抜くこと」とかね。

人の数だけ基準があるというかね。数え上げていけばキリがないほどですよね。

-うん。でね、実際に見ていると「ウチはうまくいっている」という会社さんも個人さんも多いようには見えないわけですよ。

そうですね。だから「ビジネスをうまくいかせるためには」というテーマで本の依頼が来る。

-そうそう。それでね、。ひとつお聞きしたいんですけどね。ビジネスでうまくいくためにはどういうことをしたらいいんですか?

それは一條さんのご専門でしょうけど(笑)

-まあ、個別のノウハウとしてはね(笑)でも、根本的な理解nついてのお話をする機会はあまりないですよね。

うん。だからそういうことをこうして本として提案するというのは、そういうおお話を必要とされている方たちには役に立てていただけるのではないかと思うんですよ。

-なるほどね。ちなみに、先生から見たときに、こうすればビジネスはうまくいくよっていう方法というのは何なんですか?

それはね、意志の起き方を見直すというかね。あとは「自己内自己」と「自己内他者」の切り分けをするっていうことですよね。

-自己内自己と自己内他者?また難しそうな言葉が出てきましたよ(笑)

(笑)まぁ、でも、そういうことだよね。

-ふーん。意志の起き方を見直すとか、「自己内自己」と「自己内他者」の切り分けをするというようなことがあって。そういうことをやっていけば、ビジネスでうまくいくと。

私はそう思うんですけどね。

-じゃあ、その内容を詳しくお聞かせいただいてもいいですか?あくまdえもこの本おw読んでくださっている個人の方がビジネスで成果を上げる方法という観点で。

そうですね。会社や組織の成果というのではなくてね。あくまでも、この本を読んでくださっている個人の方が成果を上げるほうほう。

-はい。よろしくお願いいたします。

・「コミュニケーション」と「ビジネスの成果」

なぜビジネスで成果が出ないのか。今まさに、このように悩まれている方もいらっしゃるかもしれません。ではなぜビジネスで成果が出ないのか?この理由を簡単に言うと、自己内他者と他者の見極めができていないからだと言えます。その結果、純粋に人の気持ちを汲むということができない。正確に言うtお、人の気持ちを汲むことに集中できない。ということになるでしょうか。なぜ、人の気持ちをくむことに集中できないかというと、そこには自分の主観があるからです。つまり、いつも自分の欲求が先に立ってしまう。自分の欲求が先に立ってしまうとはつまり、「もっと、もっと」と際限なく求めていくということです。つまり、欲望を限れていない状態です。そうなると結局、欲望を限れないがために落とし穴に落ちることになる。ですので、ビジネスで成果を出せるか出せないかというのは、極端に言うと、欲望を限れるか限れないかということだけが焦点だとも言えるわけです。もしくは「欲望を限る技術」を持っているかどうか。

だから、自己内他者と他者というものの確認方法を持っているか、理解方法はセインちうかというところで相手とコミュニケーションがとれるかどうか、つまりビジネスで成果を出せるかどうかが決まってくるのだと思います。

今、コミュニケーションという話が出ましたが、コミュニケーションということでいえば、今のビジネスの現場にはコミュニケーションがないように感じます。例えば営業だったら「売りたい」という気持ちがあって、「売りたいから売るんです。」とやっている。そこにはそもそも、「相手にたいする問いかけ」がないわけです。私はコミュニケーションとは、「問いを発して」「それに答えが返ってくる」プロセスだと定義していますが、ビジネスの現場で言う「問い」というのは例えば、「こういう商品があるんだけど、要りますか?」という風に相手に聞くことです。
だから、自己内他者と他者というものの確認方法を持っているか、理解方法は精密かというところで相手とコミュニケーションがとれるかどうか、つまりビジネスで成果を出せるかどうかが決まってくるのだと思います。

今、コミュニケーションという話が出ましたが、コミュニケーションということでいえば、今のビジネスの現場にはコミュニケーションがないように感じます。例えば営業だったら「売りたい」という気持ちがあって、「売りたいから売るんです」とやっている。そこにはそもそも、「相手に対する問いかけ」がないわけです。私はコミュニケーションとは、「問いを発して」「それに答えが返ってくる」。プロセスだと定義していますが、ビジネスの現場で言う「問い」というのは例えば、「こういう商品があるんだけど、要りますか?」という風に相手に聞くことです。その結果、「要る」という返事が返ってくれば売れるわけです。もしくは、「こういう商談を御社とまとめたいんだけど、まとめる氣はありますか?」と聞いて、「ある」という答えが返ってくれば商談をスタートできる。とても単純なことですけれど、見えているとそもそも「そういう問いかけ」がないことが本当に多いのです。「問い」がないのだから当然「答え」もありません。こういう場合には、コミュニケーションの前提を作らないとならない。コミュニケーションの前提として必要なことは、自分の中で自分に問うということです。

例えば、「このお客さんとの関係でどんなコミュニケーションを期待しているのか」というようなことを一回自分で把握してみたらいいと思うわけです。なぜなら、相手を「この人」もしくは「このお客さん」という風に特定したときにはじめてコミュニケーションのプラットフォームというか、土台ができるからです。その相手が特定の個人であることもあれば、候補者がいっぱいいるような場合もあるでしょうけれど、まずは相手を特定して、その人やそれらの人たちとの関係の中で自分はどんな内容を期待しているのかを考えてみる。これが最初にすることです。

ところが、このことができない人はとても多いのです。自分に問いを発しようとしても、結果として自己内自己とじこ内他者の会話で終わってしまう。つまり、自己の中での対話がぐるぐるとめぐってしまうということが起こるのです。例えばこんな具合です。

「私はこうしたいけど、そうすると相手にこう思われるかもしれないな・・・。それは意やだから避けたいけど、でもこういう結果が出ないと部長に怒られるかもしれないからな。けど相手にこんな風に返答されたら困っちゃうし、でも・・・」

笑い話のようですが、実際に頭の中でこういうおkとが起こっている人は多いですし、ひょっとしたら読者の方の中にも思い当たることがあった方もいらっしゃるかもしれません。いずれにしてもこうやって思考が巡っている間gは、「自分はこのお客さんとの関係でどんなコミュニケーションを期待しているのか」というようなことを把握することはできません。

その結果、やっぱり「問い」を発することなく、自分の欲望だけを先に立てて走っていくことになる。このような状況が起こっているように感じます。

「補足-「自己内自己」とは何か?

これは簡単に言うと、自分の中にいる自分という意味です。つまり、自分が自分のことをどう考えているかという認識だと言ってもいいと思います。その中には「自分の現状に現状に対する理解」もあれば、「今、何を考えているか」「どんな気持ちでいるか」「これまでにどんな経験をしてきたか」というような事柄も含まれます。

「自己内他者」とは何か?

「自己内他者」とは何かというと、それは自分の中で僧都している自分以外の誰かのことです。「あの人はこう考えているのではないか」とか、「あの人はこういうことをするのではないか」というような、いわば推測と言ってもいい内容なのですが、しかし、これらの内容はあなたの中ではその人として存在しているかのように見えている。この存在のことをこの本の中では「自己内他者」と呼ぶことにします。」

さて、先ほど、コミュニケーションンの前提として、自分の中で自分に問うということがなかなかできない人が多いというおお話を書きました。なぜかというと、自分ん中で自己内自己と自己内他者の会話がぐるぐると巡ってしまうからだと書いたわけですが、ここから抜け出すためにはどうすればいいか?まず最初に手を付けるといいのは「自己内自己」を把握することです。なぜならば、自己内他者はどこまでいっても自分の推測の域からは抜け出すことができません。しかし、自己内自己は自分で把握することができるのです。だから、まず最初に自己内自己を把握しましょうと持言えますし、自己内自己を把握することからしかスタートできないともいえるわけです。いずれにしてもビジネスで成果をあげるためのスタート地点として、どのようにして自己内自己を把握すればいいのかを次の章でおお話していきたいと思います。

「コンサルタント一條のビジネス実例コラム」

欲望を限るとはどういうことか

今のお話の中で、ビジネスで成果が出ない理由として、いつも自分の欲求が先に立ってしまう状況があるということが出てきました。もっともっとと際限なく求めていくという状態を、「欲望を限れていない状態」と呼んでいるわけですが、そうして欲望を限れないでいると落とし穴に落ちる。

これはどういうおとかというと、あれもほしい、これもほしいという具合になって、労力や時間を分散してしまう結果、結局何も手に入らないどころか、費用や時間を失ってしまうということです。具体的な例で言うと、例えば私はよく営業研修のご依頼を頂くわけですが、研修に参加してくださる営業マンさん、営業ウーマンさんの営業の現場を見ていると売りたい気持ちが先だっていて「誰でもいいから売りたい!」という風になっていることも多いのです。

「売りたい」「売りたい!」という欲望が先走っているから、もちろん、相手の話なんて聞いている余裕はなくて、一生懸命売り込んでいく。ところが、いくらおちらが売りたいと思っていたところで、相手が解体と思っていなければ絶対勝ってもらえないわけです。ですので、私は「売り込むよりも前に、まず買う氣があるかないかを確認した方がいいですよ」と言うのですが、なかなかこの売り込みがやめられない。私が「買わない人は買わないから、先に買う人を見つけて、その人に売ったらいいんじゃないの」と言うと「買う人なんて出てこないんですよ」という話になっていきます。

この時点でもし本当に「買う人なんて出てこない」のであれば売り込んでもしょうがないということになるのですが、なぜかそういうことを考える人はおおくないようです。まぁ、そんな話は置いておいて、そこで私が「いや、買う人はいるでしょ、100人いたら1人ぐらい」と言うと「いや、100人いたら100人に売りたいんです」という話になっていく。これはつまり、「買う人なんtねいないだろう」という思いと、「でも、100人いたら100人に売りたい!」という思いの間で自分自身が翻弄されている状態です。

ところで営業という行為についてものすごく客観的な事実を言えば、「売れる時は売れるし、売れないときは売れない」ということになると思います。こう言ってしまうと身もふたもないですが、これは別にあきらめでもなんでもなく事実です。

もちろん、売れるためにというか買ってもらうために、もっと言えばお客さんが解体と思うように、できるだけの努力をすることは当然です。そのために私の研修もあるわけですし、そういうノウハウというかプロセスを知っていると成果が出る可能性はものすごく高くなる。しかし、どれだけ努力をしても「売れない時は売れない」のです。これは一方で「売れる時は売れる」ということでもあります。これが事実なのですが、この事実を受け入れた時に初めて、自分の欲望を限ることができるのではないかなと、私はそう思っています。必要と思われることはきちんとしたうえで、過剰な期待を持たないということでもあり、可能性に対して過小な評価をするわけでもない。別の言葉で言えば「適度な期待」と「適度な評価」を持つ状態と言えるかもしれません。欲望を限るというと、なんだか佐多織の境地のような話に聞こえるかもしれませんが(笑)このような理解をしていただくと、ビジネスでの成果も出やすくなりますし、この本の内容もより役立てていただける可能性が出るのではないかと思います。

第2章 自己内自己を把握する

-自己内自己と自己内他者との会話ですか。これは、ぐるぐるしますね(笑)

うん。ぐるぐるしてます(笑)

-「そもそもコミュニケーションがないんだったら、成果も手に入れようがないでしょう?」ということですよね?

そうです。やっぱり目的は何であれ、ビジネスの成果というのは、自分と自分以外の他者とおやり取り、つまりコミュニケーションの成果ですからね。

-うーん。「ビジネスの成果はコミュニケーションの成果である」というと、なんだか聞き飽きた内容にも聞こえるけれどと(笑)

またかってね(笑)

-うん。でも、「コミュニケーションと呼ばれる行為の内容をちゃんと理解していますか?」と、

そうですね。

-コミュニケーションというのは「問いを起こして」「それに対して答えが返ってくる」プロセスである。

そう。

-ところがそういうプロセスはビジネスの現場ではほとんど無視されている。

実行されていないというかね。

-なるほどねぇ。ビジネスで成果を上げたいならそういうコミュニケーションのプロセスを実行することが大切だし、そのプロセスを始めるためには、自己内自己を把握することから始めるといいのではないかということですよね。

そうです。

-では、じこ内自己を把握する方法について教えていただけますか?

はい。

第3章-「欲望」を価値化する取り組み



-うーん。不安をあおる情報ですか。ビジネス上でもこういう情報を使っている企業さんや個人さんは多いですからねぇ。



そうですよね。やっぱり「売る」ことが目的になるからですかね。



-そうですよねぇ。ただ、不安を使って売っていると、クレームもものすごく増えるんですよね。



ああ。やっぱり。



-うん。お客さんとしては、ふとした時に裏切られたというような感情になるんでしょうね。



そうでしょうね。そもそもあおるというのが、もともとの感情に手を加える行為ですからね。



-そうなんですよね。そういう意味で言うと、この自分の「欲望」を書き出していくというのは良い取り組みですよね。自分が買う側に回った時にも、冷静に判断ができる余地が生まれますもんね。ビジネスや商売をしている人だって、一歩会社から出れば、ひとりの消費者というか、お客さんになるわけですからね。



-そうですね。



ところで先生。時には相反して足を引っ張り合うような欲望が自分音中にあると氣づくだけでも、とても価値のあることだということですけど、これはどういう意味ですか?



-それはですね、自分の欲望を「可視化」できるという価値ですよね。可視化することがすなわち価値化であるというね。



-可視かすることが価値化である?ほう。どういうことかお話しいただけますか?



はい。



・「隠したい」「恥ずかしい」



前の章では、「自己内自己」を把握していくために、紙にもパソコンにでもいいから自分の「欲望」を書き出していくという取り組みをご紹介しました。この取り組みで何をしているのかというと、自我の全体把握だということになる。その中にはどういうことをしたいのかとか、どういう風に思われたいのかというような欲望もあれば、そのほかの欲望もいろいろあると思いますが、その把握をしていくわけです。その結果、「あなた自身の欲望の一覧表」ができるわけですが、この時点で、この一覧表自体が結構な価値を持つと思うのです。



ワタシはこの内容おnことを「自我の貸借対照表」と呼んでいます。なぜなら、こういう取り組みによってはじめて自分の欲望を可視化することができると思うからです。例えば神の上にそれらの欲望を目に見える形で書き出したことによって、それらの内容に価値の高を付けていくこともできるようになる。もしもそうしたければそれぞれの内容の価値を、数値で評価することもできるわけです。



情報というものは可視化することで、価値化されるという性質を持っていますが、これはまさにこの取り組みの目指すところです。ですので、欲望を書き出してみた段階ですでに二項対立の構造があって「これはどうやって折り合いをつければいいのだろう・・・」と考えこんでしまいそうになることもあるかもしれませんが、そういうことはとりあえずおいておいて、まず一度全部洗いざらい書き出してみる。その作業をしてみていただきたいと思います。



ところで、この取り組みをするときに氣を付けるべきポイントがふたつあります。そのひとつ目は、「欲望を隠さないこと」です。欲望というと、やっぱり隠したがる人は多いものですが、この「欲望を隠したがる」というのが情緒的には一番まずいところです。なぜならば、欲望をかくしていると、自分の中で大幅に自由度が下がるからです。ですので、どこかの段階では、この各層とする行為というか思考が、どこから出てきているのかということを一回、自分の中ではっきりさせておかなければなりません。



その出所には「人にバカだと思われたくな」とか、「恥をかきたくない」とかいろいろあるとは思いますが、そういう思考が生まれる理由として考えられることのひとつには、自分の中に「自分はこうあらなければならない」という理想の自己像を持っていることがあげられるかもしれません。ただ、先にも書いたように、理想の自己像というものがかえって足を引っ張っているということも多いわけですから、欲望を隠したいという欲求が出てきたときには、その欲求はどこから出てきたのかを客観視できるといいと思います。そしてそもそも、欲望というのは一種の情報です。そして情報には「公開性」という特性がある。



これは簡単に言うと、情報は各層としても隠せないということです。情報にはそういう性質があるのだから、情報の一種である欲望も、隠そうと思っても隠せはしない。どうせ隠せないのであれば、私は「公開と俊敏」という言い方をしますが、まごまごしないでただちに公開するということをおすすめします。さて、自分の「欲望」を書き出していく取り組みをする際に氣を付けるべき点のふたつめです。二つめは先ほども少し出てきましたが「恥ずかしい」という感情から抜けるようにすることです。というのもこの感情は、日本人には特に強い傾向があるからです。そもそも「恥ずかしい」という感情は、ある種の社会的倫理というものに自分の考えを照らし合わせた結果出てくるものです。



この社会的倫理というものは、すでに自己内自己の外にある。つまり、「恥ずかしい」という感情の中身を見てみると、「こんなことを書いたらあの人にどう思われるだろうか?」という心配だったりするわけですが、それは何かというと自己内他者に近い。ところが、今やろうとしていることは、自己内他者の把握ではなくて、じこ内自己(主体自我)の把握です。ですので「恥ずかしい」と感じたときにはそれを自己内他者としての思考だなと認識して、その気持ちを手放すように努めてください。



なによりも大切なことは自己内自己を把握することにある。そう思って取り組んでいただければと思います。こうしてじこ内自己(主体自我)を把握していくことで、次のステップが見えてきます。ところが実は、この手間えには大きなハードルもあります。この取り組みをしっかりと行うために、次の章ではそのハードルについて説明をしておきます。

(七沢)



・欲望を隠す出版業界



今、自己内自己を把握するときに、自分の欲望を隠したくなる気持ちに対処することが大切だというお話がありました。実はこの「隠す」という行為もビジネスの現場ではいたるところで見受けられる行為です。しかもたいていの場合には、「隠す」ことによって何らかのメリットを受け取ろうとしているわけですが、では、この「隠す」という行為は本当に自分にプラスの成果をもたらしているのか。そのような観点で少しお話をしてみたいと思います。例に出すのは、出版業界のお話です。



さて、私はコンサルタントとしても活動していますが、複数の会社も経営しています。その中のひとつに出版社があります。コンサルタントとしても他の出版社さんの書籍の販促を請け負ったりしていますので、出版社さんとの関係は多い方だと思います。ところでですが、出版の業界というのは、とても特殊な業界です。この本もそうですが、いわゆる書籍と呼ばれる商品は「著者」と呼ばれる人間のコンテンツからできています。そういう意味で「著者」のコンテンツがなければ「書籍」という商品は成り立ちません。つまり、言い方を変えれば出版社さんというのは、私の会社も含めて「人のふんどしで相撲をとっている」ようなものなのです。これは少し考えてみれば分かることです。ところが、実際の出版ビジネスではこのことがある意味で隠されています。では何が隠されているのでしょうか?



簡単に言えば出版社さんは書籍から利益を上げています。どれだけの利益を上げているかというと、だいたい書籍の低下の約67%が出版社さんの粗利益です(雑誌は除きます)。

一方、著者さんに支払われる印税はいくらかというと、だいたいn場合、最大でも低下の10パーセントは出版社さんの粗利益の中から支払われますから、最終的には出版社さんの粗ぇ利益は定価の約57%。著者さんお利益は10%ということになります。



もちろん、出版社さんはこの粗利益の中から書籍の印刷費用やカバーなどのデザイン料、それから書籍の在庫を保管する倉庫料なども支払っていきますから、一が二57%のすべてがりえきと呼べるわけではありません。



それにしても・・・それがなければそもそも書籍はできなかった「コンテンツ」を持っている著者さんへの支払い額に対して、出版社さんが取っていく利益は多すぎやしないかと思うのです。そして実はこれは多くの出版社さんが氣付いていることでもあります。だからこそ、おかしなことが起こっている。その内容を書いてみます。ご存知ない方もいらっしゃると思うので補足程度に書きますが、今の出版業界の制度では新しい書籍を発行すればするほど目先のお金が出版社さんに流れ混む仕組みになっています。

だから各出版社さんは新しい本をどんどん出版していくわけです。そうはいっても「売れない本」を出してもしょうがない。そう考えるのは当然です。その結果、多くの出版社さんが何をするかといいうと、すでに売れている本の著者に目を付ける。そしてその著者さんに「先生。うちでも本を書いてくれませんか?」とにじりよっていくことになります。このようにして売れそうな、安全パイの本を出版して目先のお金を稼ぐ。別にこのこと自体は悪いことではありません。ビジネスですから利益を求めるのは当然ですし、その結果良い本が世の中に出回れば、読者んにも喜ばれる。出版という字業にはものすごく価値があるとも思うのです。

ところで、出版さんは基本的に本を作る専門家ではありますが、本を売る専門家ではありません。だからこそ、私のもとにいろんな出版社さんから「ウチの販促を手伝ってほしい」という依頼がくるわけですが、すべての出版社さんが外部の人間や組織に自社の書籍の販促を依頼するわけではありません。そんな出版社さんの状況があるのですが、この状況でこの「先生」の本が売れなくなるとどうなるか。出版社さんはこの先生に対して「先生、そろそろ売れる本書いてください」と言うのです。それでも売れる本が出ないとどうなるか。「先生。そろそろ本気を出していただかないと」となる。それでも売れないとどうなるか。「あの業者も終わったな」と言って、その「先生」には見向きもしなくなる。冗談のようですが、こういうことは頻繁に起こっています。

ところで、私はここで倫理的な話をしたいわけではありません。ただ単にビジネスの現場で起こっているひとつの例を書いているだけです。なぜなら、あなたに考えてみていただきたいことがあるからです。先に出版社さんから著者さんへの対応の仕方の移り変わりを書きました。私は出版社さんと書きましたが出版社さんという「人」はいませんから、実際にはその対応をしている担当者さんがいらっしゃるということになります。では、この担当者さんはこの仕儀とに関して「自分として最高のパフォーマンス」を発揮できる状態にあると言えるでしょうか?最初に相手にすりよっていくときには「先生、先生」と相手を持ち上げる。そしてその業者さんの本が売れている間はこのスタイルを続けます。次にその著者さんの本が売れなくなると、突然強気になる。そして「先生」に対する目線は「上から目線」に変更です。

それでも本が売れないと「あいつは終わったな」と言って使い捨てにして、また次の著者に「先生、先生」と言いながらすり寄っていく。こういう一連の流の中に、ビジネスの楽しさはあるのかな?と思うのです。もっというと、清々と仕事ができるのかな?と思うのです。実際、こういうやり取りで心を病んでいった出版業界の人は私が知っているだけでも結構な数いらっしゃいます。

そしてこのような状況の原因のひとつには、アンバランスな利益の配分を著者に隠しているということがあるのかもしれません。(かくしているとはいわない)までも、知らせていないという事実はあるように感じます。一方で著者さんもこういうことは聞きませんが、それにはそれの理由というか、隠された欲望があったりします。ですのでどっちもどっちなのです(笑)

もちろん、出版社さんが自分たちが書籍からどれだけの利益を上げているかを著者さんに知らせたら、ひょっとしたら印税の増額を求めれるかもしれまsねん。その求めに応じると「その書籍から手に入る利益」は当然減ります。そうなっては、困る。だから、この利益の配分状況を著者に知らせないのかもしれません。けれど、この「隠す」という行為によって、自分たちがどれだけ大きな精神的なだめーじを受けているかに気付く人は多くはありません。そんなことよりも、利益が減る方が困る、というわけです。でも、そう考えるのは「利益というものは限られた中からできるだけ多くをとらなければならないものだ」という認識があるからにすぎません。

実際には、利益の源というのはたくさんたくさんあって、いくらでも手にすることができる。
これは私がいろいろな企業さんのコンサルティングを通じて、そして自分の会社の経営を通じて感じていることでもあります。ではもしも、利益の源が限られていないとしたならば、出版社さんは著者さんに利益の配分状況を隠すでしょうか?利益はいくらでも得られると分かっていたならば、正々堂々と利益の配分状況についても話をすることができるのではないかと思います。

その結果、何が手に入るか。もうかくしていることがばれるのではないかとびくびくしながら仕事をする必要はなくなります。もう隠していることがばれるのではないかとびくびくしながら仕事をする必要はなくなります。ひつよう以上にへりくだることも、必要以上に上から目線になることも、ましてや「あいつは終わったな」などということもなくなるはずなのです。

ところで今は出版社さんについて書きましたが、別に出版社さんがわるいと言っているわけではありません。そもそも、私も出版社のはしくれです。また、著者さんの側にも出版社さんに隠している欲望のようなものがあることも知っている。私はたまたまその両者から仕事のご依頼を頂くことが

あるので、そのあたりを知ることになっただけかもしれませんが、今ここでご紹介した内容だけを読んで「出版社はけしからん!」というような理解をしていただきたくはないと思っています。

そのような誤解をされる可能性があうrと分かっているにもかかわらずこのお話をしたのは、あなたの会社やあなたの身の回りに目を向けるときの良いサンプルになると思ったからです。なぜなら同じようなことはどの仰臥位でも起こっているからです。もっと言えば、社内でこのようなことが起こっていない会社さんは驚くほど少ないのです。そして、多くのかいしゃさんがその状況の中で成果を出そうとしている。でも、それはとても難しいと思うのです。あなたのまわりにもいろんなノウハウや、いろんなコンサルティングを導入してもなかなかうまくいかないという企業さんがあるかもしれません。もしくはいろんなノウハウを試してみたけれど、どうもうまくいかないというご担当者さんもいらっしゃるかもしれません。もしも、いろいろなノウハウを試してはみたけれどうまくいかなかったというのであれば、その原因はそもそものビジネスのとらえ方にあるのかもしれません。

実際「今のご時世はすごく厳しい」とか「不況だから厳しい」とかいう言葉もよく聞きます。その内容を端的に言えば「今は売上が上がらないから厳し」ということになります。けれど、売上が上がらないということの前に、自分が仕事をしているときおn苦しさがその発言の根底にあるのではないか。私にはそう感じられるのです。ではそういう状況から抜け出すにはどうすればいいか。そのためにはまず、今実際に何が起こっているのかを知ることが第一歩になる。そう思ってこのおお話をご紹介しました。じこ内自己の把握をしていく際にお役立ていただければ幸いです。

※第4章 「投獄」「倒産」「大病」の価値

-う~ん。確かに。でもね、こういう「欲望」を書き出していく作業って僕の経験的にもものすごく価値があると思うんですけどね。でも、実際にこういうことをやってみたという人も、やってみる人も少ないわけですよ。

はい。

-所詮自分の中でやることというか、例えば一人で部屋にこもって、誰もいない所で1毎の紙に自分の欲望を書きだすのであれば、誰にも見られるわけでもないし。簡単なことだと思うんだけど、これができないでしょう?

そうだね、できないよね。

-誰も見ていないし、自分がそれを書き出したのちでも、欲望を書いた紙をぽっと燃やせばそれできえちゃうわけですよ、物理的には。だから、理屈では絶対に大丈夫だと分かっているはずなんだけどできない。ということは情緒が邪魔をしているんでしょうかね?

そうでしょうね。

-その情緒というのは何なんですかね?僕ね、それがいまいち分からないんですよ。絶対誰も見ないんだからやればいいじゃんと言ったときに、やらない、その理由が。

うん。

-例えばね僕の知り合いの社長さんがいて、結構忙しくしている女の子なんですけどね。「これから先、自分はどこに進みたいのかを一回整理したい」って言うんですよ。だからね、本当に強制的に1日時間を取って、携帯電話も持たずに部屋に入って。というのはその子はいつも形体が掛かってきて形体に出ているから。そうじゃなくて、誰にも行き先知らせずに、どこかに行って一人になれるスペースに入って、紙とペンだけ持って、そこで何したいかとか書き出したらいいよというわけですよ。

はいはい。

-「そうすると進みたい方向も解ってくるし何よりビジネスがすごくすっきりしてうまくいくよ」といいう話をするんだけど。しばらくして会った時に「やった?」って言ったら、やってない。「いや、できないですね、なかなか」とかって言うわけですよ。僕、そこの理由を実はすごく知りたい。何でできないんだろう。物理的に時間が取れないとか、そういう話じゃないわけですよ。だって、ほかのことはできているわけだからね。

そうでしょうね。それは一種の不安症候群ですからね。

-え?不安症候群?なんですかそれ?もう少し詳しくお話しいただけますか?

もちろんです。

※「不安症候群」と「自分に対する定義」

自己内自己(しゅたい)自我を把握するために、自分の欲望を書き出してみる。この取り組み自体はとても簡単ですが、この取り組みをなかなか実行できない人は多いのです。この章では、もしあなたが自己内自己を把握する取り組みを始めようと思った時のために、どういう理由でその取り組みができなくなりがちなのかを消化しておきたいと思います。というのも、あらかじめこの取り組みに手を付けられない理由を知っていれば、それらの理由を避けて通ることができる可能性は上がると思うからです。

・自己内自己を把握する取り組みをしようと思っても手が付けられない。この理由には大きく分けてふたつあります。そのうちのひとつが、私が「不安症候群」と呼ぶ内容です。これは簡単に言うと、今している行為を止めること自体が不安だという思考パターンに陥っている状態だと言えます。冒頭の会話の例でいえば、いつもじゃんじゃん携帯電話に電話がかかってきて、いつもそれに答えている社長さんにとっては、携帯電話を持たずにどこかに行くという行為自体がとても不安な行為に感じられるということです。

つまり、電話でも何でもしていないと、言い知れぬ不安に陥ってしまう。だからこそ、それを止めることができない。身体的に言うと、ずっと交感神経が優位になっている状態です。つまり、自己内自己(主体自我)を把握する取り組みができない時にも、その取り組み自体に抵抗があるわけではないことも多いのです。そうではなくて、取り組みの内容がなんであれ、その取り組みのために今の日常をストップすることに対する抵抗がある。この抵抗のために身動きがとれなくなっている人が増えているように感じます。

これはある意味、麻薬中毒と同じ状況だとも言えますが、こういう不安を持つようになった原因にもいろいろな階層があるはずです。そして、主体自我を把握するということは、これらの原因を自分で把握するということにもなる。

いったんその不安の原因を把握してしまえば、その不安にコントロールされるおとはなくなるわけですが、この原因を把握するためにはこの欲望を書き出す取り組みをする必要がある。しかし、この取り組みをしようとすると不安が頭をもたげてくるので、取り組みができない。このようにぐるぐる、ぐるぐるとしている方は多いのです。もちろん、冒頭の会話に出てきた社長さんだけの話ではありません。その証拠に、昔からビジネスの世界では、社長がゆっくり時間をとって自分の中を整理できる機会、自分の思考を省みる機械は三つしかないと言われています。それが「投獄」「倒産」「大病」です。牢屋に入れられるか、会社が倒産してするおとがなくなるか、もしくは大病をして病院に入院しっぱなしになるkあ。それぐらいのことがないと、ゆっくり考える時間はとれないと言われてきた。これは社長業についている人だけに当てはまることではなくて、すべての人に当てはまることです。

毎日毎日忙しく仕事をすることが自分の生きがいになってしまっているというか、生きがいというより、脳の反応のようなものになっていることも多いと思います。ですので、投獄とか倒産とか大病とかという目に合わない限りは自分の思考を省みることはできないかもしれない。ただし、それではビジネスの成果というものも遠くなってしまいます。ですので、この本を読まれた方で、やってみようと思われた方は、自分が投獄されたとして、もしくは会社が倒産したとして、もしくは自分が大病をしたとして、そういう仮定をして時間を作ってみる。この時点で自分を客観視していることにもなりますが、本当に投獄や倒産や大病ということになる前にぜひ、そのような取り組みをしてみてもいいのではないかと思います。

一方、実際に自分の経験としてこのような投獄や倒産や大病というような経験があるがゆえに非常にビジネスがうまくいっている方たちもいらっしゃいます。自分が事業をしている方もいれば、コンサルタントさんのように人にアドバイスをしている方もいますけれど、やはりそういう経験をしている人は、そういう経験をしていない人に比べて視点が違うことが多いように感じます。

コンサルタントさんという話で言えば、机上の論理を押し付けてくると評価されている方やコンサルティング会社も多いですが、こういう経験をしている人たちというのはまず机上の論理だけで話をしくることはありません。その意味で、もちろん、それ居zんに人としての信頼性などという面がクリアになっているということが前提ではありますが、その人や会社の歴史を知っておくというのはいっしょに仕事をするうえで参考になる情報だと言えるかもしれません。

さて、自己内自己(主体自我)を把握するために、自分の欲望を書き出す取り組みがなかなか実行できない理由のふたつめです。これは「自分という存在」に対する定義なのです。

古くはパスカルが言っていることですが、人は迷っている限り、ある意味で安全dあという認識がある。というのも、人は自分に対して「私は迷っている存在だ」という定義をしていることがあるからです。「私は迷っている存在だ」という定義をしている場合には、迷いがないところに行ってしまうと自分に対する定義が崩れてしまいます。こうなると、「迷いを払拭することになるかもしれない取り組み」には手が出せない。なぜなら迷いがなくなったら、「迷っている存在」である自分の存在がおびやかされることになるからです。パスカルの言ったこのような内容が、彼の次の時代にはキルケゴールのような実存哲学を生み出してくるわけですが、この「私は迷っている存在だ」という定義には根深いものがあるように感じます。この定義のもとには、一神教的な「人間というのは被造物だからね」というような認識があるというか、「すべては神様に決めてもらえばいいのではないか」という思考があるかもしれません。

自己内自己(主体自我)を把握するために、自分の欲望を書き出してみる。この取り組みをなかんか実行できな理由をふたつご紹介してきました。このような理由がある一方で、自分字sんがもうにっちもさっちもいかなくなっていると無意識の上で氣づいたときには、先ほども書いた投獄・倒産・大病というような状況に、自分で自分を追い込んでいくというようなことも起こります。その結果、自分の思考を省みる機会があるのであれば、それもひとつの選択かもしれません。

いずれにしてもこの取り組みをいつ始めるか、それともはじめないかというのは、この本を読んでくださっているあなたが決めることだと思いますが、その時の参考になればと思いいくつかご紹介させていただきました。ぜひ、参考にしてみてください。さて、次章ではじこ内自己を把握したのちのステップ、つまり自己内他者を把握するステップについてお話ししていきます。(七沢)




なぜ日本人はうまくいくのか―17-19-七沢賢治

2021-01-02 08:59:47 | 日本人はなぜうまくいくか
17章 言葉の力を使いこなす

前の章で、情緒に溺れないようにするためには情緒語をたくさん読んでいくだけでいいというようなお話をしました。これは何をしているかというと、自分の感情にぴったりくる言葉を探しているわけです。この本の前半部分で山上憶良が「言霊」という言葉を使った背景について考察をしました。その中で、私は憶良が日本語に対して、物事を表すのにぴったりの言葉を使っていることに感嘆したのではないかと書いたわけですが、この、物事を表すのにその物事にぴったりの言葉を使うということができれば、ものすごく人間としての可能性が広がるのです。

実は、ここに言葉の力をつかい使いこなすカギがると思っています。この章では言霊というか、言葉の力を使いこなす方法について書いていきます。

コミュニケーションと「ぴったり言葉」

「言霊の幸ふ国」とは物事を表す時に、まさにその物事にぴったりの言葉を使っているということではにかというお話をしました。では、物事にぴったり合った言葉があると何がいいのか。まず、物事にぴったり合った言葉を使うと、コミュニケーションが円滑になるのです。ここでいうコミュニケーションには、自分自身とのコミュニケーションと、自分以外の他者とのコミュニケーションのふたつがあります。物事を表現するのに、その物事にぴったりの言葉を使いこなすと、このふたつのコミュニケーションがそれぞれうまくいくようになるのです。

自分とのコミュニケーション

まず、自分とのコミュニケーションでいうとどうなるか。これは前の章でも書いたように、ぴったりの言葉を使うことで情動から自由になるわけです。というのも、何かの物事を表現する時に、どうもぴったりでないなぁと思いながら、ぴったりではない言葉で表現すると、その何となく感じている違和感の情動が心の中に巣くうことになります。そして、この違和感は、また別の物事を、またぴったりこない言葉で表現するたびに積み重なっていく。毎日これを繰り返すわけですから、違和感の情動はあっという間に膨れ上がってしまうのは当然です。その結果、その違和感の情動から逃れられなくなる。ところが、物事を表す時に、その物事にぴったりの言葉を使いさえすれば、この違和感を持つことはありません。それだけで心の重荷から解放されることになる。その結果、足取り軽く進んでいけるようになるわけです。もちろん、物事を表す時に、その物事にぴったりの言葉を使うためには、その言葉を知っていなければなりません。その意味では少々のトレーニング、練習は必要です。とはいえ、このトレーニングはむずかしいものではありません。先ほどの情動語の例と同じく、物事を表す言葉をザーッと読み上げていくだけで十分です。

ぴったり言葉の効用

では、なぜぴったりの言葉で物事を表現し始めると、物事が実現するようになるかというと、言葉の前には思考があるからです。ぴったりした言葉を使うとは、思考と言葉のギャップがない状態を作り出すということです。そこには自分の足を引っ張る要素はない。だかrア物事が速やかに実現していくのだと、私は理解しています。ということはつまり、言葉が主役なのではないのです。主役はあくまでもあなたの思考です。ですので、自分の足を引っ張る思考がある場合、どんなにいい言葉を使ってもギャップは消えない。それどころか、言葉の良さが増すほど、思考と言葉とのギャップが大きくなる。それによってますます強く自分の足を引っ張ることになるかもしれません。良い思考があって、ダメな言葉をつかう使う場合にもギャップがある。ただこの場合には、そんなにひどい状況にはならないとはおもいます思います。なぜなら先にも書いたように、言葉と思考を比べた時には、必ず思考が優先されるからです。ですので、最終的には思考が規定した方向に動いていくことになると思います。もちろん、動き出すまでにも動き出してからも時間はかかるかもしれませんが。
良い思考があって、ぴったりの言葉を使えばギャップがなくなる。すると、すいすい進める。自分で自分の足をひっぱる引っ張るエネルギーの浪費がないから当然いえば当然ですが、これは気持ちの良いものです。
いずれにせよ、言葉の力を活用しようと思う時には、言霊というものを神秘的なものと考えるのではなく、こういうロジックがあるという前提で考えていただければと思います。実際、古事記もそのような言葉の使い方のマニュアルだったわけですから。

会話ができない親子たち

話は戻って、他者とのコミュニケーションの話です。先ほど、物事を表現する時にその物事にぴったりの言葉を使いこなすと、他者とのコミュニケーションもうまくいくというお話を書きました。実際、他者とのコミュニケーションがうまくいかないと実生活に支障をきたします。たとえば、あっちに行ってほしいのに、こっちに来られるとか。売ってほしいのに売ってもらえないとか。伝えたいことが伝わらないと実生活が成り立たないわけです。他者とのコミュニケーションがうまくいかなくなって、コミュニティーが崩壊したというお話が、聖書に登場するバベルの塔として描かれていることからも分るように、他者とのコミュニケーションが崩壊するというのは、社会的な大打撃になりうるわけです。にも拘わらず、このコミュニケーションのずれは今もいたるところで見受けられます。

違う言語をはなす話す人同士はもちろん、同じ言語を話している人の中でされ、まったく意味が通じない。たとえば女子高生とビジネスマンでは会話の中で使う語彙がそもそも違います。主婦とキャリアウーマンの会話も同じです。そして、話が通じない相手との間には対立関係が起こりがちになる。これは思春期の子供たちとその両親との間によく見受けられる出来事を考えていただければ分かりやすいとおもいます思います。

コミュニケーションのギャップを取り除く

では、コミュニケーションのずれがなくなるとどうなるのか。先ほどかいた書いた自分とのコミュニケーションの場合とお暗示ように、やはり物事がすいすいと進み始めるわけです。相手の言っていることが分かって、こちらが言いたいことが伝われば、しかも先ほど書いたようにその時にぴったりの言葉を使えば、情動がクリアになる。これは私たちのこれまでの研究からも実証されています。先にもかきましたが書きましたが、この分野で私たちが最初に手を付けたのはビジネスシステムの開発でした。なぜなら、当時のびじねすビジネスの現場では企業間はもちろんのこと、同じ社内の部署間でも言葉が通じないというコミュニケーションギャップが見えていたからです。たとえばこれが友人や知人という関係なら、コミュニケーションがとりにくい相手とは付き合わないということもできるかもしれません。

しかしビジネスの現場では、しかも同じ社内の人間とのコミュニケーションをとらずに済ますわけにはいかないわけです。しかも、喜捨という共同体の一員として利益という共通目標に進まなければならないという命題もある。ですので、当時、国からの委託を受けてナレッジマネジメントに関するソフトウェアの開発をしていた私たちは、このコミュニケーションギャップの解消は良いビジネステーマになると考えたわけです。こうしてソフトウェア開発に踏み込んでいったわけっですが、その時の状況は先に書いた通りでした。まず、ビジネス的には同じ意味を持つはずの内容が業種や業態によってまったく違う呼び名でよばれている。

また、学問的に同じ意味を持つはずのないようについても、学問によってまったく違う呼び方がされている。かと思えば、社内の各部署の間でぽっかりと穴がいあているような部分があると言った具合でした。何らかの用語を使って定義しなければならない内容に対して対応する用語がないために、ビジネス上ぽっかり穴があいていて、そこに問題が頻発していたりする。そんな中で工業的な方法で短期間に大量にソフトウェアをつくるために考え出した方法が、ひとつの言葉に対してひとつの意味だけが対応しているビジネス用語の辞書を作り、その辞書を基にシステムを組み上げることでした。これは先にも書いた通りです。その結果、「もれなく、重複なく、かつビジネス上のすべての活動が網羅されている」ビジネス用語辞典ができあがり出来上がり、その時点をもとにシステムを組んでいったわけです。いったんシステムが組み上がった後は、システムの中に格納されているデータのラベルを各企業の現状、つまり、そのクライアント企業さんの社内で実際に使わている呼称に差し替えていきました。たとえば、サービスの提供前におきゃくさんからあらかじめお金をもらう行為について、基本となるシステムでは「前受金」と呼んでいるとします。それをクライアントさんの現状に合わせて呼称を変えていく。
たとえば、ある企業では「前受金」というらべるラベルを「着手金」というラベルに貼り替える。
また別の企業では「前受金」というラベルを「着手金」というラベルに貼り替える。
また別の企業では「前受金」というラベルを「工事預かり金」というラベルに貼り替える。
また別の企業では「前受金」というラベルを「仮受金」というラベルに貼り替えるという具合でした。
また、動揺の作業をお暗示ひとつの企業の中の複数の部署に対いても行っていきました。というのは、経理部で使っている言葉と、営業部で使っている言葉とは、たとえ同じ内容を指していたとしても、呼び方が違う場合があったからです。

具体的な例を挙げると、ホテル業でいえば、営業部では「ラックレート」という言葉を使い、経理部は「室料」という言葉を使っているようなケースがありました。これらの呼び名をひとつひとつ、貼り替えていったわけです。これはある意味、他者とのコミュニケーションを円滑にするための取り組みだったとも言えます。使っている言葉が違うがゆえに、コミュニケーションに不具合をきたしている部署Aと部署Bの間にこのシステムを置くおとによって、一回このシステムの知識データーベースという共通語にアクセスしてからお互いがコミュニケーションをとれるようになるからです。この取り組みを経て、私はそれぞれにとってぴったりの言葉を使うことで、他者とのコミュニケーションがスムーズになることに確証を得たのでした。

ビジネス曼荼羅とメンタルプロセッサー

ところで、このシステムについて少々補足をしておくと、このシステムのアイデア自体は曼荼羅と呼ばれる密教の絵図体系からヒントを得たものです。曼荼羅は教義には密教の絶対的真理の本質を絵図の上に表現したものと言われています。が、一方で広義では全体性を持った宇宙観・世界観の象徴を表すものとされています。私たちはこの多重多層の宇宙観・世界観を表す曼荼羅を通してビジネスの役割を定義していきました。具体的に言うと、その役割を5つの階層に分けていったわけですが、この階層の数がちょうど知識ん階層数と同じことにも、私が氣がついていない「なんらかのいみ意味」があったのかもしれません。

具艇的に言うと、その役割を5つの階層に分けていたわけですが、この階層の数がちょうど知識の階層数と同じことにも、私が氣が付いていない「なんらかの意味」があったのかもしれません。このシステムは下位者の全社的な動きを統合するためのシステムとして、今もご提供を続けていますが、今ご提供を開始しているもうひとつの新しい取り組みは、主に顧客の購買心理に関するものです。

本書でご紹介したシステムが企業の活動を漏れなく、重複なく、かつすべて網羅するように整理していくのに対して、このもうひとつのシステムは、顧客の購買心理を漏れなく、重複なく、かつすべて網羅するように整理したものです。めんたるメンタルプロセッサーという名前で稼働を始めているこの内容は、きぎょうが営業などの場面で顧客の購買心理に応じた対応をするのに役に立つのではないかと想定しています。いずれにしても、ある特定の活動や情報に対して漏れなく、重複なく、かつすべて網羅するように整理していくナレッジモデリングの手法自体に変わりはないわけで、この手法を活用する場面はまだまだ広いと感じています。

18章  言葉の力と周波数

さて、前章では物事を表すのにその物事にぴったりの言葉を使うということができれば、コミュニケーションの質が上がるというお話をしてきました。

この章では、物事を表現するツールとしてではなく、そのもの自体としての「言葉が内在する力」について検証してみようと思います。

脳に伝わる「愛」の力

私は本書で、私が決して言霊を神秘的なものとしてとらえているわけではないと繰り返しお話ししています。
そして、あなたが言霊を使いこなすことを望まれるのであれば、そのカギは、言霊に対する信仰にあるわけでもなく、言霊を神聖なものとして扱うことにあるわけでもないというお話もしてきました。では、私は「言葉」には何の力もないと思っているのかというとそうではありません。それどころか、言葉に力があるのは事実であると確信しています。たとえば私たちには、愛という言葉を聞くと良いイメ―ジを持つことが多いわけです。その時に何が起こっているかというと、「あい」という音が耳を取って脳に到達し、脳がその音に反応してある特定の反応を起こしていることが脳波研究から分っています。

この反応をさらに細かく分析すると、「あ」という音によって引き起こされた反応と、「い」という音によって引き起こされた反応とが重なっていることが分かります。もちろん、ここでいう反応とは、音が伝わった結果、脳の中で起こる反応のことを指しています。つまり、「愛」という言葉を聞いて感じる感情とは、実は「あ」という音を聞いて脳に起こった反応と、「い」という言葉を聞いて脳に起こった反応による脳の動きだと言うことができるわけです。そして、それぞれの音が脳に到達した時に脳の中に固有の周波数を引き起こすということが分かったことで、ロゴストロンという情報や知識の最小単位を発信できる装置の開発につながった。これは先にも書いた通りです。この装置の開発を通じて私が感じたのは、結局言葉というのは、脳にある種の反応を起こさせるためのトリガーのようなものではないかということでした。そうであれば、言葉(音)の力というものは、言葉(音)自体にあるのではなく、その言葉を受け取る人間の脳の中にあるということになります。つまり、人間の脳の中には、すべてのトリガーに反応できるに十分な要素が、それこそ漏れなく、重複なく、かつすべてが網羅された形で用意されているのではないか。そのように思うのです。

もしもこの仮説が正しいのであれば、私たちが目や耳にする知識や情報を、漏れなく、重複なく、かつすべてが網羅された形に整えていくことは人間の活動の仕方として非常に理にかなっているのではないかと思います。私たちの一連の取り組みは、ビジネスシステムを興行生産的に開発するために情報と言葉の対応を一意味語として整えていくというところから始まったわけではありますが、目的であったビジネスシステムの開発が終了した今からも、もうしばらく探求の旅を続けることになりそうです。

19章 なぜ日本人はうまくいくのか?

ビジネスの現場、文化、教育の分野などで戦後お手本にしてきた欧米式の方法論が立ち行かなくなり、ふと氣がつけばこれまでに築いてきた”日本式のやり方”という土台もなくなっていた。このような一見八方ふさがりに見える現在の日本で、将来につながる糸口はないのか。そのような観点でこの本を書いてきました。ここで最後に日本人がうまくいく可能性について全体的な考察をしてみようと思います。

日本人にとっての「いのち」

さて、日本人がうまくいく可能性というテーマで考えると、その可能性を支えているのは、その文化の中に物事を網羅しようという性質があることと、網羅するべき対象それぞれに対してぴったり合った表現用語を以ていることだと思います。他の国の言語では、網羅しようと思ってもピッタリの言葉がない。ぴったりの言葉がない物事は思考の対象から抜け落ちてしまうわけです、なぜぴったりの言葉がないかというと、自分たちは被造物であって、創造主によって作られた人間が何を餅、何を感じるかは創造主がすべて決めるのだという思想が根底が根底にあるからだと考えられます。つまり、ぴったりの言葉を自分で探すということをしないわけです。そうではなくて、神から与えられる呼び名を持っている。ところが日本では「いのち」というものが神からつくられたという発想がありません。日本人にとっての「いのち」とはおのずから湧いてきたものであり、誰かに作られた被造物ではない。

おそらくこの考え方は日本人が自然を観察するところから得られたのではないかと思われます。細菌がわく様子を見てというか、食物が発酵する様子などを見ながら、命はおのずからわいてくるのだという結論に至ったのではないかというのが私の推測です。もちろん、一神教の世界に住む人も食物が発酵する様子や最近がわく様子は見ていたと思いますが、それによって命がおのずから湧いてくるとは考えなかった。
おそらく、これは仮説ですが、一神教を土台とする文化にとっては、発酵の様子や最近は忌み嫌うものであって観察対象ではなかったのだろうと思われます。

もちろん、「忌み嫌う」という選択をする際には一神教の狭義というか、「神」という情報や知識の番人の影響があったはずです。ところで、実際に日本人が食物の発酵する様子から命の発生に思いを馳せたのかどうかは今の私には知る由もありませんが、日本という国でこれだけ多くの発酵食品が作られていることも、日本の文化の根底を探るうえでヒントになるのかもしれません。

「穢れ」を流す滝津速川

さて、日本人には観察対象を網羅しようとする傾向があり、物事を網羅する時にそれぞれの物事にぴったり合った言葉もあるというお話をしてきました。それに加えて、日本人には「流す」という意思がある。これは誰かに主導権を取ってもらおうという考え方ではなくて、自分で主導権を取ろうという意志の表れだとも考えられます。もうひとつ、この「渡す」という意志に関しては大切なことがあります。

実は、水というのは50センチ流れると清まってしまう。これは科学です。逆に、水が一か所にとどまっていると腐ってくる。これも科学です。ですので、水が流れるということは、清まるということと同じ意味なのです。ここでは話は再び日本の「祓い」の儀式に戻りますが、大祓えの祝詞の中には罪や穢れを流す神々が出てきます。それらの神々によって罪や穢れは多支都速川の瀬から海に流されていく。海に出た罪や穢れは、さらに沖に流されていく。最終的に罪や穢れは海の底にまで流されていき、そこでそれらの罪や穢れを全部引き受けて消してしまう神が表れる。これらの表現から分かることは、日本人は昔から各種の自然の働きを神と呼んでいたということです、つまり、ここでも日本人というのは観察者だったと言えると思うのです。自然の働きをつぶさに観察しながら、自分が認識する自然の範囲を絶えず拡大していく。日本人という人種はそういうことをやってきていたのではないかと思います。

神はサイコロをふらないのか?

今の物理学ではこの「観察者」という存在がクローズアップされています。つまり、観察者の意志によって実験の結果が変わるということが証明されているわけです。これはアインシュタイン以来の科学を揺り動かす、ものすごい衝撃です。ある意味ではこれまでの物理学に限界が訪れたともいえます。というのも、アインシュタインは「神はサイコロをふらない」と言いました。つまり、人間の意志で物事の結果が変わったりすることはないと言ったわけです。ところが今では、観察者の医師によって実験の結果が変わることが証明されてしまった。となると、神はサイコロをふりまくっていることになります。

観察者の意志で卦kkが変わるというのは、物理学にとってアインシュタインが1955年に亡くなって以来の新しいパラダイムです。これまでは神が決めていて、人はそれに従うだけだと考えられていた部分で、人が主導権を持つことができると分ったわけです。こうなった時に、観察者というのはものすごい力を持つわけですが、日本にはその観察者という文化が根付いている。

これはこれから私たちが新しい時代を暮らしていく中での大きな利点だと思います。ではなぜ日本人が観察者でありえたのかということですが、私はこれは島国という日本の地理的条件の産物だと思っています。先にも書きましたように、日本は島国であるがゆえに、外国から来たものを受け入れやすい文化があったと思われます。受け入れやすいともいえるし、排除できないとも言えますが、いずれにしてもその結果、観察の対象をゆっくりと見る時間ができた。観察によって語彙も増えることになった。島国という特性はまた、みんなのことを考えなければいけないという制約条件も生み出します。するとまた相手のことを観察したりする。

その結果、以心伝心というコミュニケーション法や、あるいは空気をよみながら生きるという必要性とその必要性を満たすための能力がついたりしたのではないかと思います。つまり脳の機能が非常に広がった。コミュニケーションの能力が行動になったということだと思います。

転換期を迎えたパラダイム

話は戻りますが、日本には物事を網羅して、流して、消すという概念がある。いわば意志を持った観察者であることが、日本人の特性になるわけです。それは同時に科学の最先端が行きついたところでもあります。一神教的な土台を持つ今までの科学は量子力学が登場したことによってその限界をさらけ出しています。その限界の一つが「光より速いものがない」と言われてにもかかわらず、ニュートリノというもの、光よりもほんのわずかだけども速いものがあるのではないかということが分かったことです。

おそらくこれで、一神教を土台にした科学に終止符が打たれるのではないか。私はそのように感じています。もちろん、それはこれまでの一神教を土台にした科学の功績を無視することでありません。ただ単に、パラダイムが新しい転換期を迎えたというだけのことだと思うのです。というのも、今や膜宇宙であったり、ヒッグス粒子であったりというものが実証されようとしつつあります。そうなると宇宙の成り立ちについても明らかになるかもしれません。もしくはブラックホールとホワイトホールとワームホールの関係が証明される時が来るかもしれない。

これらのテーマを今の科学にあてはめて解釈しなおすこともできるし、ちょっと前のパラダイムで解釈し直すこともできる。これはひょっとすると、天動説から、地動説に変わるぐらいの変化かもしれません。すると、この変化に抵抗を感じる人も出てきてもおかしくはない。それはしごく当然のことだと思うのです。けれどおそらくですが、日本人にはこの新しい点簡易対する抵抗が比較的少ないのではないかと思うわけです。というのも日本は八百万の神々がいるとされている国です。当然、物事を受け入れる際の受け入れの余地は大きい。なぜなら日本人は自分たちのことを被造物だとは思っていない。意志ある観察者の集団なのですから。

さて現存する日本最古の歴史書といわれる古事記では、最初に登場する神を天之御中神と呼んでいます。そしてそれはおのずから出てきた神であると書かれています。神すらもおのずからわいてきたと考える思考の枠組み。そういう枠組を土台にしているがゆえに、日本の文化には今の二項対立をひっくりかえせる可能性がある。しかも、何か悪いおkとが起こったとしても、それを網羅して、流して、そして消してしまおうという意志さえある。この意味で、今、世の中が二項対立に端を発する問題を抱えている時代には日本人の感覚が役に立つのではないかという氣がしています。

あとがき

今国内では女性を中心に、パワースポットめぐりが人気のようです。神社や寺院、そして美しい瀧や壮麗な山々など。これらの、エネルギーが高いと言われている場所に足を運ぶ人が増えています。

その背景には、なんとなく自分のエネルギーが欠けているというかんかくがあるのかもしれません。
もしくはエネルギーに満ち溢れている人は、さらにエネルギーを高めようとされているのかもしれません。ところで、いわゆるパワースポットとは何かについて明確な考察がされているのを私は聞いたことがありません。では人は何をもってパワースポットという場所を定義しているのでしょうか。もともと日本には、土地を表す言葉として「いやしろち」もしくは「けがれち」というような表現がありました。では「いやしろち」とは何か。

最近ではこの音に「癒し」という漢字を当てはめることもあるようですが、正確には「社」という漢字が入ります。どういう意味かというと「社」、つまり神を祀る神社が建てられるほどに清らかな土地という意味です。いっぽう一方、「けがれち」という音にはどのような漢字が入るのか。「穢れ」や「汚れ」という漢字を思いうかべられることも多いようですが、正確には「氣枯れ」です。

つまり、氣が枯れるほどに状態が悪い土地という意味です。ところで、「氣」という言葉はよく聞きますが、その実態はなんだか神秘的なものとしてとらえていることも多いようです。私は、この「氣」というものをある種の生体電流のひとつだととらえています。

なぜならば、人間はその体のあらゆる部位から電流を発生させている存在だからです。筋肉運動ひとつとっても電気刺激で起こるものですし、脳波(脳電図)や心電図も脳や心臓がそれぞれが常に電気を発しているからこそ測定できるものだからです。

そもそも地球自体が、電場と磁場から成り立っている存在です。太陽から届く電場と、地面が持つ磁場のバランスから成り立っているんが、われわれが暮らしている地球の表面であると言えます。
さて、ここで先ほどの「けがれち」の話に戻ります。氣が枯れるとはどういうことなのでしょうか。私は電場と磁場とのバランスがいちじるしく著しく狂っているために、人間の生体電場を乱してしまうような土地のことを「氣が枯れる土地」と呼んだのではないかと思っています。では「いやしろち」はどうか。
おそらく、電場と磁場のバランスがものすごく整っている土地なのではないでしょうか。
そのために、その土地に人間が足を踏み入れるだけで、自身の身体の生体電流が整ってしまう。
そんな土地なのではにかと思います。ここまでくると、もはや電気治療を受けているようなものですね。ここに書いたことはあくまでも私の考察です。私のこれまでの経験と研究から言うと、外れてはいないだろうという感覚はあるのですが、ではこの内容が世の中のスタンダードかというとそうではありません。ではなぜ、私は今、この話を書いているのか。それは、どんな物事の歌にも見様とすれば見ることができる、大切なポイントがあると思うからです。私は本書で、日本人がうまくいく可能性について書いてきました。

日本人が持つ文化や言語の特性だけでなく、なぜそれらの特性が今の世の中の問題を解決できるのかという根拠についても、今の問題を形づくっている思考の枠組みにまでさかのぼってお話ししてきたつもりです。もちろん、限られた紙面ではありますし、私の研究も完了しているわけではありません。なにより私の文章表現能力と言う限界もある。

ですので、本書でお伝えしてきた内容がすべてただしい正しいとも、すべてを網羅しているとも思えないのです。それでもあえてこの本を書いてみないかというお誘いをお受けしたのは、今のさまざまな問題を解決するカギとなる「アプローチ法」を本書を読んでくださsるみなさんにお伝えできるのではないかと思ったからです。

私がお伝えしたかったのはあくまでも「アプローチ方法」であり、私がそのアプローチ法を使って確認した「内容」のほうではないのです。ですので本書をよんで読んで、本書に書いてある内容に同意していただく必要も、ましてやその内容で私のことを評価していただく必要もありません。逆に「七沢が言っていることはおかしい」と判断していただいたといしても、まったく構わないのです。その時には、ぜひ、あなたご自身の研究を始めてみていただきたいと思います。そしてその時には、本書でご紹介した物事への「アプローチ法」がきっとお役に立てていただけるはずです。

それもそのはず。
このアプローチの方法は、私が編み出したものではなく、われわれ日本人の文化の中に脈々と流れてきたものなのですから。同じ日本という国で、あなたと、このアプローチ法を共有できたことに感謝します。
それはひょっとしたら、日本になりませる八百万の神々かrあの贈り物かもしれません。

最後になりましたが本書の執筆ならびに私のこれまでの研究に対して、専門的な見地から多くのサポートを下さいました東京外語大学の奈良毅名誉教授、神奈川歯科大学の鈴木祥井教授、山梨大学の椙村憲之名誉教授、岐阜大学の鷲巣誠教授、日本獣医生命科学大学の鷲巣月美教授、山梨大学の井坂健一郎准教授、山梨大学の酒匂教授、鳥取大学の森嶋伊佐夫名誉教授、復旦大学(上海)の李為民教授に心からお礼を申し上げつつ、筆をおきたいと思います。最後の最後に最後までお付き合いくださいましたあなたにお礼申しあげます。本書の内容がほんの一部でもあなたの実際の暮らしにお役立ていただけることを願っています。

七沢賢治
























日本人はなぜうまくいくかー14ー16ー七沢賢治

2021-01-02 08:56:52 | 日本人はなぜうまくいくか
14章-ナレッジを網羅する

前章で観察者の視点は「二項対立の構造」を崩壊させることができる可能性を持つと書きました。同時に観察者の視点はナレッジを網羅することを通じて、倫理性をもたらすとも書きました。この章では、ナレッジを網羅するということについて、もう少し掘り下げてみようと思います。

分けても分けても限界は残る

本書で何度も言及してきた二項対立の考え方が、これだけ世の中に染み透っている理由のひとつひとつとして、その考え方がある意味、非常に分かりやすいということが挙げられると思います。その考え方を理解するためにはむずかしいトレーニングも、意識的に見る部分を変えるという取り組みも必要ないわけです。

たとえば、支配と被支配とか、持つものと持たざるものというような構図は、誰にでもあっさり理解できる。理解できるがゆえに、それが物事の本質だと思ってしまいがちだということがあります。富の偏在というテーマでも同じですし、食糧を持っているかいないか、利潤が多いか少ないか、エネルギーを持っているのかいないのか。こういうすべての問題は二項対立的に物事を見ることから生じている。もちろん、あるかないかという概念を少し進めるだけで、「あの人がより多くを持っているのは何か不当なことをしているからではないのか」とか、「なんとしても相手のものを奪いたい」というような思考が生まれますし、そういう思考によって対立が起こるわけです。

そして、そのような対立を解消するための方法として、ひとつものをもっと多くに分けるというアプローチを提唱している人もいます。物事をふたつに分けるから二項対立が起こるわけで、物事をそれ以上に分けてしまえば対立は解消するのではないかという仮定に基づいたアプローチです。これはある意味、物事を分かりやすく理解するための方法論だと言えると思います。この例としてはたとえば心理学における交流分析というものがある。これは人の真理を大きく5つに分類して、その中でバランスを取っていきましょうというものです。もちろん、他の分け方をする人もいて、ある人は13項目にわけたり分けたり、ある人は100項目に分けたりもする。いわゆるマイクロカウンセリングという手法がこれにあたります。ただし、そのようにしてどんどんどんどん分けていったとしても限界がある。たとえばですが、ひとつの物事を一兆の分類に分けたとしても限界は残るわけです。どんな限界かというと、「記述できない部分が絶対に残る」という限界です。なぜなら、こういったアプローチでは物事を分けようとしているから。分けようとすればするほど、どんな分類にも分けきれない要素が必ず出てくるわけです。それでは情報を網羅することはできない。そして、記述できない部分から新しい問題が発生することになる。こうなると、途方にくれて「さてどうしよう・・・」ということになります。ここから物事をさらに細かく分けようというアプローチに進むことは多いのですが、やはり同じ結果が待っているのです。

分類が目的か、網羅が目的か

実は私もそのジレンマに悩んだひとりでした。そうした時に考え付いたのは、そもそも分けるおtいうことを考えなければいけないのではないかということです。分けるのではなくて、とにかく全部記述する。つまり、分類することをもくてきにするのではなくて、網羅することを目的ンいするという考え方です。そうすると、何も考えずにただ記述していけばいいわけですから、なんらかの要素が抜け落ちるという可能性そのものがなくなります。仮に、これまで記述していなかった新しい要素が出てきた時も、単純に追加で記述すればいいわけですから、何かが漏れるとか、抜け落ちるということがそもそも起こりえない。

私はこのようにして、ナレッジというものはデジタルナレッジとして記述し尽くすのが本来の扱い方ではなかろうかと思うようになったわけです。つまり、細かく、細かく、細かく分けていけば、より網羅できるという話ではなく、全部書き出すつもりで全部書いていけば、全部網羅できるという話です。今、デジタルナレッジという言葉を使いましたが、これは別にコンピュータ向けのソフトウェアに入力する知識データという意味ではありません。そもそもデジタルという概念はアナログという概念に対応して存在する概念ですが、簡単に言えば、グレーゾーンのない存在をさす言葉だと言えると思います。つまり、1といったら1そのものだけを表すということです。それは、1・1でもなければ1・001dめおない。0・98でもなければ0・999999でもない。

1は1なのです。そこに誤差はないし、付加されるものもない。これとは逆に、アナログというのはグレーゾーンがあることを前提にしている概念です。ですので1といってもそれは1かもしれないし、1・001かもしれないし、0・9999999かもしれない。そういう意味で考えると、ナレッジ(知識)にもデジタルナレッジとアナログナレッジがあると考えられます。簡単に言うとアナログナレッジというのはナレッジではない。アナログナレッジというのはナレッジっぽく見えるけど、実はそこは情動という要素がひっついているからです。アナログナレッジは再現性がないか、もしくは再現性が低い。なぜかと言えば、情動の部分が変化するからです。その知識(疑似知識)を活用する人が違えば同じ情動を持つことはありえないでしょうし、たとえ同じ人が知識を使う場合でさえ、タイミングや場所が違えば場所が違えばもう同じ情動を持つことはできないからです。ところがこのことが理解されていないことが多い。するとどうなるかというと、疑似知識を使って物事を際限しようとするけれどうまくいかない。そこで、「なんでなんだ」と当惑してしまう。今、さまざまな分野で、こういうことが起こっています。

アナログナレッジからデジタルナレッジへ

逆に、誰が使っても、どこで使っても再現性があるというような知識は、疑似知識ではなく本当の意味での知識であると言えると覆います。アナログナレッジではなく、デジタルナレッジですね。純粋な知識ということです。では疑似知識ではなく知識を手に入れるにはどうすればいいかというと、これは階層を分けて知識をたらえていく以外には方法がない。つまり、情動と知識を別のものとしてそれぞれを別の階層としてとらえるということです。知識に張り付いている情動を、ちしき知識そのものから切り離すという作業をするわけですね。

ただ、情動を知識から切り離すといっても切り離した後の情動を収納する場所がなければまた情動が戻ってきてしまいますから、切り離した情動ンいはしかるべき場所を与えてあげなければならない。実際、人が物事をとらえる時には5つの階層があるわけです。ですので、あるひとつの知識が目の前に現われた時に、そのひとつの知識の中身を分解して、それぞれの要素をそれぞれに適切な階層に収納してあげるということが必要になる。

こういうことをした結果、ナレッジに対する情動が外れた状態になれば純粋なナレッジを活用することができますから、再現性は非常に高いと言えます。もちろん、情動に対しての知識というものもあります。それは「この情動は何なのか?」という理解だと言ってもいい。たとえばある慣れjjに「憂い」という情動がひっついていたことが分かった。そこで、ナレッジ自体と「憂い」という情動を切り離す。そのうえで「憂い」という情動は「情動に関する知識の階層」に格納するわけです。そこでは情動に関する知識があるから、「憂い」というのはどういう感情をいみ意味するんですよという、意味付けができる。しかも、その「憂い」という情動を説明する知識自体も「憂い」という実際の情動とは切り離されている。というのもそれは「情動そのもの」ではなく、「情動に関する知識」だからです。知識として「憂い」を見ているわけだから、実際に自分が感じる「憂い」とはまた別のものであるということです。

ナレッジに張り付く情動

ナレッジに情動がどのように貼り付いているのかという例を挙げますと、たおてば、株取引を考えるとこういうことが起こっている。株取引にはある種の法則というか、これは経験からくる法則ですが、そういうものがあります。たとえば「チャート(株価)がこれだけ下がったら売ってください」というような知識ですね。この知識に沿えば、ある程度うまくいくことが分かっている。この知識に対して知識と情動とを完全に分けて理解していたとしたら、チャートがこれだけ下がったら売るということが簡単にできるはずです。

ところが実際に株取引の現場で何が起こるのかというと、「チャートは規定値まで下がったから今、売るべきなのだけれど、もうちょっと持ちたい」とか、「いくらいくらで買ったんだから損が出るのはいやだ」とかいう情動に左右されて売ることができなかったりするわけです。これは知識に情動が張り付いている状態です。こうなると、再現性がどうのこうというまでもなく、そもそも知っている知識を活かせなくなる。

一方で今でhあまだ幼いのに株式トレーディングをやっているような子供がいますけれど、彼らhあもう本当に指南通りのことをするわけです。そういった子供たちにはもうけようという意思というか、生活のためにもうけようというような意志がないからなのかもしれませんが、本当に指南どおりにする。ではなぜこんなことができるのかというと、知識に情動を貼り付けていないからです。

ですので、知識が際限できるかどうかというのは、そのちしき知識が正しいかどうかということもありますけれど、それはひとつの要因にすぎなくて、もうひとつの要因は、情動から自由になっているかどうかということも大切だと考えられると思います。とはいっても今の世の中に流通している知識のほとんどには情動が張り付いていて、アナログナレッジ(疑似知識)になっているように感じ舞す。だからこそ私は、すべての知識がデジタルナレッジになりうると言うのです。もうすでにすべての知識がデジタルナレッジになっていれば、あえて「すべての知識がでじたるデジタルナレッジになりうる」なんていう必要はないのですから。

武田勝頼の悲劇

ところが今の世の中には、アナログナレッジをもって、それをデジタルナレッジであるかのように流通させているという側面があります。たとえばしんりがく心理学でも、あたかも学問的に、科学的であるかのような装いをもって整理するためのさまざまな方法論が登場している。しかしその中身を見ていると、やっぱり情動が張り付いているわけです。

簡単に言えば、情動が貼り付いている真理をくら分析したところでやっぱりまた心理、また心理、また心理というように延々と堂々巡りをしている。ではそこから抜け出て、疑似知識ではなく、知識を得るにはどうすればいいのかというと、私は階層の整理をすることだと思っています。階層が整理されていないと、どういうことが起こるか?これはひとつの例ですが、戦国時代に武田勝頼が織田信長と徳川家康の連合軍に攻められたことがありました。その時に武田勝頼の味方であった小山田備中守という武将がいました。織田・徳川連合軍に西から攻められた武田勝頼は、自らの領地を東へと逃げようとしたのですが、東にはこの小山田備中守がいた。もしも織田・徳川連合軍が小山田備中守に手をまわしていて、小山田備中守が寝返っていたら、飛んで火にいる夏の虫になってしまう。そう思った武田勝頼は小山田備中守のもとへ使者を送りました。すると、その死者に対する小山田備中守の対応が悪かった。

武田勝頼の使者はその対応を受けて「小山田備中守は寝返ったようだ」と判断し、勝頼にその旨を報告します。そして、その報告を受けた勝頼は小山田備中守を攻め、最後には小山田備中守を自刃に追い込んでしまった。ところが、実際には、織田・徳川勢は小山田備中守に対して何の働きかけもしていなかった。つまり、おそらく小山田備中守は依然として武田勝頼を裏切ってはいなかったのです。

では、なぜ勝頼の使者に対する小山田備中守の対応が悪かったのかというと、どうも小山田備中守はいつも朝は起源がすぐれない人物だったようなのです。ひょっとすると今でいう「低血圧」だったのかもしれません。もしも勝頼の使者の到着が朝の時間帯であったとしたら、「低血圧」のせいで対応が悪くなったのかもしれない。もしくはたまたまその日は体調がすぐれなかったのかもしれません。詳細を断言することはできませんが、いずれにしても小山田備中守にとっては思ってもみなかった悲劇です。そして、勝頼も、自らの手で自分の味方を減らすことになった。結果としてこの後で勝頼は織田・徳河勢によって自刃に追いやられています。これはひとつの例ですが、階層を分けて物事をとらえていないとこのようなことが起こりうる。実際、現代の世の中でも、私生活やビジネスの現で同じようなことが起こっていますし、しかも頻発しているのです。そういったことを避けるためんは、物事を見ていく時にはさまざまな階層から見ていかなければならない。私はそのようにおもいます。

知識の5階層

ところで私が知識の階層と言う時には、5つの階層を思い浮かべているわけです。その5階層というのは次の5つです。意志知識の階層、結合知識の階層、精神知識の階層、情緒知識の階層、身体知識の階層意志知識というのは、自分もしくは他人の意志について知っているということです。

結合知識というのは、知識と知識を結び合わせるための知識のことです。精神知識というのは他人のことまで含めて考えた、いわゆる倫理的な知識とでもいえるでしょうか。自分についてだけの視点ではなく他人への影響も考慮した、視野の広い知識です。情緒知識というのは、情緒が張り付いた知識ということではなく、情緒そのものに名前を付けたりその属性をあらわしたり表したりして情緒を知識として理解している知識ということです。特に言えば「自分の情緒」についての知識です。身体知識というものは、医学とかDNAだとかそういう人間の身体に関する知識ですね。特に言えば「自分の体」についての知識です。先の例で言えば武田勝頼の体調という部分がここにあたります。

この階層性はなかなかりかい理解することがむずかしいと思うので、簡単な例を挙げていきます。まず、身体知識というのは、人間には心臓がるというような知識です。情報知識というのは、人には喜びという感情があるというような知識です。精神知識というのは、地上でもちあげたり持ち上げたりリンゴを放すと地面に落ちるというような知識です。精神知識から少しむずかしくなります。精神知識には身体ちしき知識や情緒知識とは違って、他者と自分との関わりという要素が入ってきます。つまり人間には心臓があるおちう知識をどのように使うのか?たとえば誰かの心臓をにぎりつぶしたとしたら、その心臓の持ち主の家族は悲しむのではないか、というような他者の情動についての知識も含んでいる、つまり、それらの一連の出来事を統合的に知っているということです。意志知識というのは、私はこういう意思を持っているということを知っているという知識です。そして個々人の中にあるすべての知識はこの意志知識によって方向づけられる。まず最初に自分の意志を提示することで初めて物事が動き出すからです。今、意志を提示することで初めて物事が動きだすと書きました。古来より伝わる伯家神道ではこのことを「置手」と呼びます。まず自分ん意志を提示する。その大切さが手に置くという表現で伝わっているわけです。

情報を網羅するラベル

ここで紹介した階層はあくまでも「知識」の階層です。ですので、日常の暮らしの中でここで使った言葉を使うことは多くないと思います。たとえば意志知識というのは、自分の意志がどこに向かっているかを知っているということでした。私たちはこのことを日常生活の中でわざわざ「意志知識がある」「意志知識を持っている」とは言いません。もっと単純に「意志がある」と言う。ではなぜここでは「意志知識」などという呼び方をしているのか。それは情報を網羅するためのラベル付けをしているだけです。ですのでそのラベルは実際には何でもいい。要はすべての情報が網羅できればいいわけですから。一方で、知識や情報というものには少なくともこれぐらいの階層があるということを知っておくことは大切だと思います。そのことぉ知ることで、「情緒の貼り付いた知識」の誤用を避けられる。私はそのように考えています。

15章-ナレッジモデリングのその先に

先ほど、私がビジネス向けのソフトウェアを開発する際に、知識・情報を「漏れなく、重複なく、かつすべてが網羅されている状態」に整えることから着手したというお話を書きました。今では知識・情報を「漏れなく、重複なく、かつすべて網羅されている状態」にすることをナレッジモデリングと呼んでいるわけですが、これは要するに、情報や知識の最小単位を決めて定義していく作業ともいうことができます。結局、私たちがやったことは、ビジネス用語や経済学用語を網羅していきながら、それぞれの言葉にうちてのひとつの言葉につき、ひとつの意味だけが対応する辞書を作るという作業でしたから。実際に、私と共にこのシステムを作り上げた仲間のひとりは、このシステムを誰かに説明する時にはいつも「こおnシステムは共通意味用語を一枚の紙に整理しただけだよ」と言っていました。

そのあとで彼はいつも「でも、誰も真似はできないね。多重多層に展開しているから」と言って笑っていたことを今でも思い出します。一意味後の宰相単位情報や知識の最小単位を決めていくプロセスを進めていくと、ちしき知識や情報が「ひとつの言葉がひとつのいみ意味を持つ」という形に整理されます。

私はこのプロセスの結果として出てくる「ひとつの言葉がひとつの意味を持つ」言葉のことを「一意味語」というように読んでいたわけですが、そのような目でいろいろな情報や知識を見ているうちに、この一いみ意味のさらに小さな単位は何なんだろうなと考えることがあったわけです。それを考えていくと、それは1音1音になる。つまり、私たいが言語と呼んでいるものはひとつひとつの音が合わさったものだということです。単語はいくつかの音が張り付き合ってできたものだとも言えますし、いくつかの音が張り付き合ってひとつの単語になっているとも言えます。

いずれにしても、一意味の最小単位はひとつひとつの音ではないかというところに行きついた。まぁ、当然といえば当然の帰結ですが、私にとってこれは衝撃的でした。その時点で、ひょっとすると、この音の要素を発信することができれば、言語を介さないコミュニケーションが可能になるかもしれないと思ったからです。そこでこの可能性を探るために実験を始めていったのですが、私が最初に「これが最小単位ではないか?」と思った音自体にもさらに小さな単位がありました。

つまり、ひとつの音、たとえば「タ」と言ったときには「T」という音と「A」という音の複合波が発信されているというところに行きついた。これも、ヘボン式のローマ字に馴れ親しんでいた日本人のひとりとしては、なんだか今さらのような氣づきだったのですが、これにも衝撃を受けました。そうして研究をしていくと「T」という音や「A」という音には、はっきりとした周波数があることが分かったわけです。つまり、それぞれの母音や子音にはっきりした周波数の差がるということが分かった。その時点で、情報や知識の最小単位機械で発信できるめどがつきました。そうなると、それを発信することができるのではないかという考えが現実味を帯びてきた。そこで、その装置の開発に着手したわけです。

「ロゴス」プラス「トロン」

この時にこの装置の名称を「ロゴストロン」というふうに決めました。これは「ロゴス」という言葉と「トロン」という言葉の合成です。単なるネーミングについての話ではありますが、本書の内容の理解に多少でも役に立つのではないかと思うので、その根拠を少し書いてみます。まず「ロゴス」とは、ギリシャ語で「言葉」という意味です。ただ、単なる「言葉」という意味とは少し違って、もう少し意味が不快。「言葉の本質」というような意味合いを持っている単語だと理解していただくといいかもしれません。少し聖書の話になりますが、新約聖書はギリシア語で書かれていたとされています。

そしてギリシア語の新約聖書の一番最初のヨハネの第一章第一節にはギリシア語で「初めにロゴスがあった」と書かれています。このギリシア語の文章を当時の日本人はどう翻訳したかというと、「初めに言霊あり」と翻訳しています。正確に言うとこの翻訳をした人物は日本人ではなくヘボン式ローマ字を開発したヘボンですが。その訳を引用すると、このようになっています。

元始に言霊あり言霊は神とともにあり、言霊は神なり。この言霊ははじめに神とともにあり。よろづのものこれにてなれりなりしものはこれにあらひでひとつとしてなりしものはなし。これに生ありしいのちは人のひかりなりし(ヘボン1872年)今、聖書の同じ部分を見ると「初めに言葉があった」という感じで訳されていますけれど、明治の初めに聖書が翻訳された時には「初めに言霊あり」というように訳されていた。この「初めに言霊あり」という役は明治20ねんくらいまでは使われていたようです(巻末資料2参照)その後は普通の「言葉」という単語だったり、神の言葉という意味で「御言葉」という単語だったりに変わっていくというか、意味が薄められていくわけですけれども。ですので、当時の日本の文化の中では「ロゴス」という単語は「言霊」という単語と近いものだと受け止められていたと言えると思います。

単なる「言葉」といういみ意味ではなくて、「言葉の本質」というような意味合いでとらえあれていた言葉です。いつでもどこでも「言霊コンピューティング」次に「トロン」というのは、The Realtime Operationingsystem Nuclearの頭文字です。このトロンというのは、2010年まで存在していた社団法人トロン教会によって運営されていたプロジェクトの名前です。この協会は、「日常生活のあらゆる部分にコンピュータが入り込みなんらかの形で人間とかかわり関わりを持っている今という時代に、これらのコンピュータをそれぞれの機器別にバラバラに扱うのではなく、ある程度標準的な使用を設けてうまく連携させよう」という取り組みでした。この基盤になっているのが1984年に東京大学の坂村健氏(現在は教授)が提唱していた理論ですが、

ごくごく簡単に言うと「いつでもどこでもコンピュータ」をいうような意味にとらえていただくといいかもしれません。このトロンプロジェクトは数々の成果を残していったわけですが、今でも国内の携帯電話会社には基幹システムとしてこのトロンプロジェクトによって開発された基本OSを採用しているところがあります。このように、「ロゴストロン」tおいう装置の名前は、「ロゴス」という言葉と「トロン」という言葉の合成ですが、意図としては言霊をいつでもどこでもコンピュータ化するソフトウェアあるはハードウェアにするという意味です。そういうう意味でこの名前を付けた。

なぜこのようなことを考えることができたかというと、先にも書いたようにことば言葉というものを今考えらえる最小単位の周波数に変換することができたからです。最小単位の周波数に変換することによって、機械的にその内容を発信できるめどがついたと言えます。ところで実は、この装置のアイデア自体はまったく新しいものではありませんし、私の完全なオリジナルでもありません。というのも、もう10年以上前。2002年に出版されたジョンジョー・幕ふぁでんというイギリスのサリー大学の分子遺伝学の教授が書いた「クォンタム・エボリューション」という本二「意識的な電磁場と直接相互作用できる電子装置を構築して使えるかもしれない」という記載があるからです。

実際に、装置としての「ロゴストロン」の開発にはこの本のこの一行が非情なヒントになったわけですし、私は「ロゴストロン」という機会はまさにこの文章に書かれている内容が実現した姿だと感じています。つまい、ナレッジモデリングで知識や情報を最小単位化するという流れを突き詰めていった結果、音の最小単位というところにたどり着いた。そして、それを発信することができるんではないかという理論を実際に形にしていくと、このような装置ができたということでしょうか。これはある種のりばーすリバースエンジニアリングですから、再現性が非常に高いということもメリットのひとつだと思います。

音を使わないコミュニケーション

もうひとつ、この装置の特徴を挙げるとすれば、音の周波数ではなくて、音を聞いた時に脳の中に起こる周波数を際限するということにあります。つまり、コミュニケーションをはかるために音を介在させる必要がなくなるということです。通常、言葉を使ったコミュニケーションでは、声を発するために喉の生体や、口の中での反響などというものを使っていくことになります。その結果として生じるものが音の周波数として相手に伝わっていく。

このために発信されるしゅうはすうには、個人個人の声の出し方や生体の太さ細さなどによって個体差が出てきます。同じ言葉を話しているのに、聞き取りやすい人と聞き取りにくい人がいるという経験を私たちがしたことがあるとおもいます思いますが、その状態になるわけですね。ところが、音の周波数ではなくて、音を聞いた時に脳の中に起こる周波数を発信すれば、個人さ、個体差はなくなります。

しかも脳の中で起こる反応をあらかじめ要してそれを直接送り込んでやるわけですから、脳が一番反応しやすい状態になると考えられます。もちろん、音を介在させる必要がないですから、人間の課長域にある周波数である必要はありません。こういうと不思議に感じられるかもしれませんが、実は、ひとつの音を聞いた時に人間の脳の中で発生するなみ波、いわゆる脳波はひとつではありません。

国際脳波学会では脳波の帯生きを9つに分けていますが、あるひとつの音、たとえば「あ」という音を聞いたときにはそれぞれの帯域でなんらかの反応が起こっている。これはそれぞれの帯域で「あ」という音を聞いた時に機械的に起こる反応があるということです。それらの波の複合波を、わたし私たちは脳波と呼んでいるわけです。つまり、簡単に言うと9つの波の重なったものが、いわゆる脳波と呼ばれているものの正体です。
(注・9つという帯域は国際脳波学会が現時点で明らかだとして規定しているだけですので、実際にはもっと複雑な反応の集合が脳波であると考えられます)

つまり、9つの帯域dえそれぞれ別の周波数が発生しているわけですから、それぞれの周波数を個別に発信したとしても、その発信された周波数と同じ帯域の脳波は反応をするはずです。9つの帯域のうち、残りの8帯域では反応はありませんが、狙った帯域では、やはりある音を聞いた時に起こるのと同じ反応が起こるわけです。

この仕組みの開発に際しては脳波の専門家である山梨大学名誉教授の椙村氏にアドバイスを頂いたわけですが、「言葉を最小単位にしてその周波数を発信します」と言うと多くの場合には、「それは音なんですか?」という質問を頂きます。もちろん、周波数ですから、音は関係がない。というよりも、音というものは人間の可聴帯域にある周波数ということですが、周波数の帯域自体はそれこそ無限いあるわけです。

ですので、周波数を発信する時には、狙った帯域に応じては「音」を出すこともできますし、音としては認知できない周波数として発信することもできるというのがせいかく正確な記述になると思います。このことを理解するポイントになるのは、発信する周波数を特定するために使ったのは言葉という「音の分析」ではないということです。発信する周波数は、音の分析ではなく、「音を聞いた時の脳波の分析」から確定されていった。
つまり、音波の切り出しではなく、脳波の切り出しから生まれている。こう考えていただくと、比較的理解がしやすいかもしれません。

周波数発信装置の第三世代

実際には、この「ロゴストロン」という装置は、言葉の最小単位を周波数として発信する装置としては第三世代目に当たります。つまり、これまでには第一世代、第二世代の機会もあるわけです。このうち、第二世代の機会では、脳波の帯域に応じて9つの周波数を同時に発信していたわけですが、第三世代のロゴストロンではもう少し絞って、つまり脳がもっとも反応する帯域に絞って周波数を発信するように設計しています。なぜかというと、脳波の帯域のなかにはひくいものもある。

0~3hzとか、0~6hzとか、いわゆる、ほとんど眠っているような状態の帯域です。そういう帯域に向けて周波数を発信すると眠たくなってしまうことが分かった。ですので、その帯域の周波数を発信することをやめて、睡眠時と覚醒時とでいえば覚醒時の周波数帯域に合わせて発信するようにしたわけです。これは第一世代や第二世代の開発に協力してくれた被験者の方々の反応を研究してのことです。そういう何年かの研究を経て、無意識ではなくて、意識が働くことができる周波数帯域で発信することが一番効果的だという結論に達したと理解しています。さて、そもそもなぜこのような機械を開発しようとしたかというと質問もおおく多く頂きます。つまり、言葉で発することができる丈夫を、わざわざ機械を使って発信する意味はなんなのか?という疑問です。

これは実は自分でもよく分かりません。

ただ、一意味語を作るナレッジモデリングの作業に関わっている時に、言葉の最小要素はなんなのだろうと考えたことがひとつのきっかけではあったと思います。もうひとつ言えることは、今の世の中には、ある意味で「神秘的」というベールに覆われている部分がある。それは「神秘的」であるがゆえに、誰もその正体を暴こうとしない部分でもあるわけです。たとえば「言霊」という言葉がそうです。「日本語には言霊があるから」というようなことがまことしやかに言われていて、それを聞いた人はなんとなくそんなものなのかなぁという理解でうなずいていたりする。

しかし実は「言霊」がどんな働きを指す言葉なのかを、「日本語には言霊があるから」と言った本人ですら分っていなかったりする。しかし実は「言霊」がどんなはたらき働きを指す言葉なのかを、「日本語には言霊があるから」と言った本人ですら分っていなかったりする。そういう状態でいると、人間というものは魔法とか、宗教とか、超能力といったような詐術にごまかされてしまうのではないかと思うのです。だから、このような装置を作ることによってその危険性を少しでも減らすことができたらいいなとは思っていたかもしれません。

みんなタブーとみなして触れようとしないところに入っていって「ほら、魔法なんてないよ」と証明することが何かの役にたつのではないかと。実際、それが科学の真骨頂だとも思います。

もうひとつ言えることは、このような装置を作ればものすごく早いコミュニケーションが実現するのではないかと考えたことも、この装置を開発する時の動機のひとつでもありました。
ものすごく簡単に言うと、「以心伝心を人工的につくる技術」、もしくは「テレパシーの工業化」と言ってもいい。
テレパーというとなんだかSFのようですが、実際には一部分はすでに工業化されている技術です。これはテレメトリーと言われていて、アメリカ航空宇宙局(NASA)などではもうずいぶん前から使われている技術になります。NASAがこの技術をどのように使っているかというと、主には飛行中のロケットや軌道上を集会している人工衛星などを管理する方法として使っている。

なぜなら、飛行中のロケットや人工衛星の様子は近くで測定することができないからです。だからロケットや人工衛星とは遠く離れた場所から、ろけっとロケットや人口衛星の状態を把握するための技術が必要になったということです。日本の「はyぶさ」の期間にもこの技術が活用されていたと考えられます。

遠く離れた地点間で情報を共有できる。

これがテレパシーといわれる現象の性質のひとつですが、これを興行的に再現できれば瞬間的なコミュニケーションができるのではないかという仮説を立てて実証してみたということは言えるかもしれません。もうひとつは先ほど書いた以心伝心という部分ですね。テレパシーと言うとなんだか超能力的なイメージがつきまといますが、以心伝心と言いかえれば、それは私たちが日常生活の中で経験的に慣れ親しんでいる出来事です。逆に以心伝心という要素がなかったとしたら、社会生活、特に日本という国での社会生活は困難になる部分もあるほどです。

そういう意味でも、以心伝心を人工的に作り出せたらもっと暮らしやすい世の中になるのではないかということは考えていたと思います。このような複数の理由から、言語という音のばいかい媒介や時間や空間の制約を超えて、瞬時に情報を伝達できるコミュニケーションのプラットフォームを作ろうと思ったわけです。もちろん、私がそのようなことを考えた背景には、わたし私がこれまでに神道や言霊の研究をしてきたということもあるとはおもいます思います。もともと「言霊とはなんなんだろう」という好奇心というか、研究の対象があった。
それを研究していくと「ああ、こういうことなのか」という結論に至るわけですが、その内容を誰かに話しても理解されないということはありました。


おそらく多くの人は「言霊」という言葉が指す内容を神聖かしているというか、神秘的なものとして見ているから、理論的な説明を受け入れることができないのかもしれません。ところが、科学的な分析をして、再現性を確認するというようなプロセスを経なければその内容を活用することはできない。そうであれば、機会にしたら理解されやすいだろうと考えたというか、科学自体がどんどん言霊を機械化するというテーマに対して追い風になるような発展そうぃてきたから、こうして機械化することができたのだとかんじています。また、そうして使える形にしておけば、社会にとってなんらかの役に立つだろうという想定があったわけです。

周波数発信装置の第三世代

実際には、この「ロゴストロン」という装置は、言葉の最小単位を周波数として発信する装置としては第三世代目に当たります。

つまり、これまでには第一世代、第二世代の機会もあるわけです。

このうち、第二世代の機会では、脳波の帯域に応じて9つの周波数を同時に発信していたわけですが、第三世代のロゴストロンではもう少し絞って、つまり脳がもっとも反応する帯域に絞って周波数を発信するように設計しています。



なぜかというと、脳波の帯域のなかにはひくいものもある。0~3hzとか、0~6hzとか、いわゆる、ほとんど眠っているような状態の帯域です。そういう帯域に向けて周波数を発信すると眠たくなってしまうことが分かった。ですので、その帯域の周波数を発信することをやめて、睡眠時と覚醒時とでいえば覚醒時の周波数帯域に合わせて発信するようにしたわけです。

これは第一世代や第二世代の開発に協力してくれた被験者の方々の反応を研究してのことです。そういう何年かの研究を経て、無意識ではなくて、意識が働くことができる周波数帯域で発信することが一番効果的だという結論に達したと理解しています。さて、そもそもなぜこのような機械を開発しようとしたかというと質問もおおく多く頂きます。つまり、言葉で発することができる丈夫を、わざわざ機械を使って発信する意味はなんなのか?という疑問です。これは実は自分でもよく分かりません。

ただ、一意味語を作るナレッジモデリングの作業に関わっている時に、言葉の最小要素はなんなのだろうと考えたことがひとつのきっかけではあったと思います。もうひとつ言えることは、今の世の中には、ある意味で「神秘的」というベールに覆われている部分がある。それは「神秘的」であるがゆえに、誰もその正体を暴こうとしない部分でもあるわけです。たとえば「言霊」という言葉がそうです。「日本語には言霊があるから」というようなことがまことしやかに言われていて、それを聞いた人はなんとなくそんなものなのかなぁという理解でうなずいていたりする。しかし実は「言霊」がどんな働きを指す言葉なのかを、「日本語には言霊があるから」と言った本人ですら分っていなかったりする。
しかし実は「言霊」がどんなはたらき働きを指す言葉なのかを、「日本語には言霊があるから」と言った本人ですら分っていなかったりする。そういう状態でいると、人間というものは魔法とか、宗教とか、超能力といったような詐術にごまかされてしまうのではないかと思うのです。だから、このような装置を作ることによってその危険性を少しでも減らすことができたらいいなとは思っていたかもしれません。みんなタブーとみなして触れようとしないところに入っていって「ほら、魔法なんてないよ」と証明することが何かの役にたつのではないかと。実際、それが科学の真骨頂だとも思います。

もうひとつ言えることは、このような装置を作ればものすごく早いコミュニケーションが実現するのではないかと考えたことも、この装置を開発する時の動機のひとつでもありました。ものすごく簡単に言うと、「以心伝心を人工的につくる技術」、もしくは「テレパシーの工業化」と言ってもいい。テレパシーというとなんだかSFのようですが、実際には一部分はすでに工業化されている技術です。これはテレメトリーと言われていて、アメリカ航空宇宙局(NASA)などではもうずいぶん前から使われている技術になります。NASAがこの技術をどのように使っているかというと、主には飛行中のロケットや軌道上を集会している人工衛星などを管理する方法として使っている。なぜなら、飛行中のロケットや人工衛星の様子は近くで測定することができないからです。だからロケットや人工衛星とは遠く離れた場所から、ろけっとロケットや人口衛星の状態を把握するための技術が必要になったということです。日本の「はやぶさ」の期間にもこの技術が活用されていたと考えられます。

遠く離れた地点間で情報を共有できる。

これがテレパシーといわれる現象の性質のひとつですが、これを興行的に再現できれば瞬間的なコミュニケーションができるのではないかという仮説を立てて実証してみたということは言えるかもしれません。もうひとつは先ほど書いた以心伝心という部分ですね。テレパシーと言うとなんだか超能力的なイメージがつきまといますが、以心伝心と言いかえれば、それは私たちが日常生活の中で経験的に慣れ親しんでいる出来事です。逆に以心伝心という要素がなかったとしたら、社会生活、特に日本という国での社会生活は困難になる部分もあるほどです。そういう意味でも、以心伝心を人工的に作り出せたらもっと暮らしやすい世の中になるのではないかということは考えていたと思います。このような複数の理由から、言語という音のばいかい媒介や時間や空間の制約を超えて、瞬時に情報を伝達できるコミュニケーションのプラットフォームを作ろうと思ったわけです。

もちろん、私がそのようなことを考えた背景には、わたし私がこれまでに神道や言霊の研究をしてきたということもあるとはおもいます思います。もともと「言霊とはなんなんだろう」という好奇心というか、研究の対象があった。それを研究していくと「ああ、こういうことなのか」という結論に至るわけですが、その内容を誰かに話しても理解されないということはありました。

おそらく多くの人は「言霊」という言葉が指す内容を神聖かしているというか、神秘的なものとして見ているから、理論的な説明を受け入れることができないのかもしれません。ところが、科学的な分析をして、再現性を確認するというようなプロセスを経なければその内容を活用することはできない。そうであれば、機会にしたら理解されやすいだろうと考えたというか、科学自体がどんどん言霊を機械化するというテーマに対して追い風になるような発展そうぃてきたから、こうして機械化することができたのだとかんじています。また、そうして使える形にしておけば、社会にとってなんらかの役に立つだろうという想定があったわけです。

意志をもった周波数

さて、実際にこの機会でどのように周波数を発信しているのかということですが、これは基本的にはこの装置に「意味のある文章」を入力していくことになります。たとえば雨乞いをする時には「雨」という単語を入力するわけではなく「雨が降ります」「雨が降りました」という文章を入力するわけです。もちろん、入力された文章は機械の中で言葉の最小単位に分解されたうえで周波数として発信されることになりますが、もともと入力するものは「意味のある文章」です。どういうことかというと、言葉の最小単位である周波数に、意志を付け加えているということです。別の言葉で言うと、言葉に方向性を持たせている。なぜならば、ほうこうせい方向性がない情報が人間の脳に入ったとしても、脳はその情報をどのように解釈すればいいかが分からないからです。逆に方向性がある情報が人間の脳に入ると、人間の脳は活発に反応する。これも脳波研究から分ったことです。

ただ、理論的な考えに現在の装置の機能が追い付いていない部分はあります。理論的に言えば、周波数が脳の中に入っていくときにはどの順番でそれらのしゅうはすう周波数が入ってくるかは関係がないということになります。なぜなら、情報は即時移転的であるというとくせい特性を持っているからです。「私はこれこれこういう理由で起こっている」という説明を聞く前から、そのひと人が怒っているおkとが伝わるというのは、あつ特定の順序で情報が入ってこなかったとしても、その情報が伝えようとしている内容は伝わっているということです。ある特定の順序というのは、音が文章になった時のその音の並び順のことです。

ある文章が誰かの口から発せられる時には音の順序というものがありますが、音の順序がなくてもその一連の音のつらなり連なり(=文章)が伝えようとしている内容が伝わっていく。たとえば「すきだ」という文章と「きすだ」という文章があるとします。「すきだ」という文章には相手に対する行為としての「好きだ」という感情がこめられているかもしれない。それに対して「きすだ」という文章には、釣り人が魚がかかった釣り竿を引き上げて「鱚(キス)だ」と喜ぶ感情が込められているかもしれない。しかし、どちらの文章も「き」と「す」と「だ」という同じ3つの音から出来上がっているわけです。
ところが私たちの普通の会話のなかでこのふたつを明確に聞き分けている。別の言葉で言えば、それぞれの文章が表している内容を正確に受け止めているわけです。これが意識的電磁場の働きと呼ばれるものです。意識的な電磁場とは、脳という量子場のことを指します。
つまり、脳の働きとしては、たとえ同じ構成要素(音)から成り立った文章だったとしても、それぞれの文章から意志情報を抽出して、その意志譲歩にそって音のつながりを解釈できるといものがあるわけです。おそらくですが、脳はたとえば上記の「き」と「す」と「だ」という3つの音を重ねあわせて同時に発信したとしても、それぞれの文章が持つ意志情報を抽出し、「好きだ」もしくは「鱚だ」のどちらかとして処理することができるのだと思われます。

これパソコンの上で文章データをコピーペーストすることを考えると分かりやすいかもしれません。たとえばあるフォルダの中に入っている文章データをコピーして、別のフォルダにペタッと貼り付ける。そうするだけで、データは瞬間的にコピーされます。しかし、その中には依然としてコピーされる元となったデータに含まれていた文章の構造はそのまま保持されている。

非常に世俗的なたとえ話ではありますが、脳が意志情報を抽出する仕組みというのはこのようなモデルで説明できるのかもしれません。
これが理論ですが、それをどのように機械的に再現するのかについてはまだ研究の途上であり、今のところ、機械で周波数を発信する際には、意志情報を伝えやすくするために文章にして入力することにしています。※先にご紹介したジジョンジョー・マクファデンの著書「量子進化」の中にある「意識的な電磁場と直接相互作用できる電子装置を構築して使えるかもしれない」という記載にある意識的な電磁場もこれと同じ。つまりジョンジョー・マクファデンは「脳に対して直接的に働きかけることができる機会が使えるようになるかもしれない」と言っているわけです。

時間の制約から解放された情報伝達

ところで、今、データをコピーして貼り付けたとしても、元のデータが持っていた構造は保持されるというお話をしました。これは大変な進化です。これまでは何かの情報を伝えるためには、たとえば口頭であれば最初から最後までを話さなければならなかった。書くことによって情報を伝えるtめには最初から最後まで描かなければならなかった。印刷技術の発達によって文章を書く手間が省かれた後も、やはり印刷おtいう「順序をともなう作業」は必要だったわけです。それが今や、データをコピーして貼り付けるだけでどんどん複製ができるようになった。これは、今までの情報伝達の方法にあった時間の制約がほとんどなくなったということです。しかし、簡単に情報が伝達されるようになったからこそ、新しい問題も起こってきます。それは不完全な、もしくは偏った情報がいたるところへ発信されてしまうという問題です。

つまり、不完全な、もしくは偏った情報が多くの人の目に触れることによって、あたかもそれがただしい正しい情報であるかのように思い込まれてしまう可能性があるということですし、すでにその種の事件も発生しています。こうなると、情報を受け取った個人が判断を誤るケースも増えてくるかもしれません。こうなると、情報を受け取った個人が判断を誤るケースも増えてくるかもしれません。
このような問題を避けるためには、発信される情報の内容に対してのナレッジモデリングが必要になってくる。すなわち、漏れなく、重複なく、かつすべてが網羅されていることが大切になるのだと思います。

これはロゴストロンというハードウェア(装置)を作って意志をともなった種は数(情報)を発信する時にも当てはまるおtいうことです。ハードウェアを使いこなすためには、やはりソフトウェアがしっかりしたものでなければならない。しっかりしたソフトウェアというのは、その内容が「欠けなく、重複なく、かつすべてが網羅されている」ものだと思います。すなわち、自分の私利私欲を確保するためだけに設計された内容ではなく、皆が共存共栄できるような、そういう倫理に基づいた記述内容、発信内容を持つことがこのハードを使いこなすカギになると思っています。そこに人間としての成長もあるのではないか。このそうち装置が実用に耐えうると分かった今、そのようなことを考えています。

16章 今の日本の問題点

さて、前章までに今、世の中で起こっている問題の原因と、その中で日本人がうまくいくための要素としての情報の網羅性についてお話をしてきました。今の問題の根源である扱いきれないほどの情報量の多さと、二項対立の構造を解決できる要素が日本人と日本語には内在されているというお話です。

ところが一方で、今の日本が情報量の多さと二項対立の構造から無縁かというと、まったくそんなことはなく、むしろ大量の情報に飲み込まれた、また二項対立の構図の中で自分の位置を確保しようと必死になっているとさえ言えます。この章では前章までにお話しした日本人と日本語の可能性を踏まえたうえで、今日本で起こっている問題を読み解いていきたいと思います。

情緒の時代の論理性

さて、情報の吸収、整理、活用ということでいえば、今は、「情緒の時代」と呼べるような状態であると感じます。どういうことかというと、何かの情報や物事にせっする接する時に多くの人が自分の中で起こる情動に主導権を与えているということです。別の言葉で言えば、どういう情動 が自分の中に起こるかで物事の良し悪しを判断しているという状態、もしくは自分の情動が快か不快かで解釈して、快ばかりを追い求めている状態であるのではないかということです。そのために、ロゴスとよばれる論理性というようなものは相当無視されている。しかも論理については、「100%の確立がなければ論理性が認められない」というようなとらえ方だから、最初から論理を構築しない傾向がある。そのような状況の中で、刻一刻とうつろい変わる情動に振り回されている。これが今の日本全体の状況ではないでしょうか。

このような風潮の中で起こっている今の日本人の情動の病というのが、まさに「鬱」だと思うわけです。鬱というのは身体的に見れば、体温が下がっているとか、あるいは免疫力が落ちているとかいう状態がある。それを今の日本では「精神の風邪のようなmのですよ」と言っている。精神の風邪だから風邪薬を飲めば治るということで薬を飲ませてかいけつ解決しようとしたりするわけです。
ところが薬を飲んで鬱が治りかけた患者さんが自殺をするケースがとても多い。

もともと自殺する人のほとんどが鬱的な傾向を持っているとも言われますが、それでも鬱の症状が治りかけたとたんに自殺する人が出てくるというのは何かおかしいと思うのです。実は私は、鬱というものは、精神の風邪というようなものではなく、「情緒」を世の中で何よりも大切なものだととらえる文化というか、風潮による災害の一種だととらえています。情緒を最高位としてとらえるから、ある特定の情緒を引き起こす言葉を聞いたり、出来事を経験したりするとそのまま病気になってしまう。そして、その情緒から脱け出す余地が非常に少ないのが今の世の中です。いくら薬を飲んでもその情緒は消えないから、鬱としての身体的な症状が消えようとしても鬱の解消にはならない。その結果、身体的な症状が消えかけた時に自殺を選ぶ人が増えるのではないかと思っています。また、今の社会を見ていると、社会全体として、マイナスの情報が何度も何度も流されています。

その結果、社会全体が鬱状態になっていると言えると思うのです。通常、いわゆる精神病と診断されるレベルの病的な症状を持つ人というのは、人口比で1パーセント程度だと言われています。日本の総人口から逆算すれば、100万人くらいのものです。ところがこの対象に鬱というものをいれたら600万ひと人とか800万人がその範疇に入ると言われています。私は実際はもっと多いと思っていますが、それにしても600万人とか800万人とかいう人数は自然発生的に生じる精神病患者の数としては多すぎる。それなのに今実際にこのようなことが起こっているという事実こそが一番憂うべきことだと思うのです。

限られた情緒語とあおられる不安

先ほど、情緒を最高位としてとられる文化が鬱を引き起こしているのではないかと書きました。では、どのような情緒の選択肢が個々人に対して開かれているかというと、これがとても少ないのが現状です。京都大学の研究によれば、ある女子大生のグループを調べた時に、自分たちの情緒を表すためにわずか7語の言葉しか使っていなかったという結果があります。彼女たちが意識しているかいないかは別として、今の世の中にはそれぐらい情緒の選択肢が少ないわけです。

そんな限られた選択肢の中で、自分の情緒にぴったり合った言葉を見つけるこおてゃほぼ不可能だと思います。ところが、彼女たちは、保管選択肢を知らないものだから、なんとかその中でやりくりをしようとするわけです。当然、無理なことをしようとするわけですから、その時点でストレスがかかります。そこに追い宇津井をかけるのがメディアです。メディアは不安をあおる情緒をひっきりないsに流し続けているからです。たとえば自身という災害に関する情報ひとつをとってみてもそれは明らかです。

自信自体はある意味、循環論のような部分があって、大きなものは大体1000年に1回とかの頻度で起こるものですし、もっといえば、日本でhア地震自体は実際、毎日起こっているわけです。特に日本は自身が多い地域でもありますから、何年くらいに1回は大きな自信が来るものだということは論理としても理解できる。ところが今何が起こっているかというと、「地震が来るかもしれない!」と安をあおる報道だったり、「いついつにどこに地震が来るらしい」という予言だったりがまかり通っています。

地震は怒りうる可能性もありますということであって、それが予言とかという不確かなものを根拠にしてメディアで大々的に報じられていること自体が非常に大きな問題だと思うのです。もう少し論理的にというか、地震学じゃないけれど、もう少し科学的に考えれば、わけもなく不安になることはずいぶん減るはずですが、誰もそういったアプローチをしようとしない。

もちろん、メディアが不安をおあるにはそれなりの理由があります。そのもっとも大きなものには、不安をあおるおとで自分達の情報が売れるということがあります。その結果、「自分の情報を売るための情報」を大々的に告知していくことになる。どんな情報かというと不安をあおる情報です。こういう情報が蔓延している今、ひとくちに情報おtいっても、「本来の情報」なのか、それとも「メディアが情報を売るために流している情報」なのかということが見えにくくなっている。ガセネタとか、記事のねつ造とか、言って表に出てくるのはまだましなほうです。

ほとんどの情報は、それが本当に必要なものなのか、そうでないものなのかが一般の人には分かりにくいように非常にうまくカモフラージュされている。ひょっとしたらメディアの側にいる人たちにとっても、もはやその差が分からなくなっているのかもしれません。メディアが不安をあおる意図としてはもうひとつ、それらの情報に接する人たちをある特定の方向に誘導しようという意図がある場合もあります。たとえばある国に対するあまりよくない情報を継続的に流すことによって、その国と戦争をすることはやむを得ないことだというように誘導することもあるわけです。たとえばある国に対するあまりよくない情報を継続的に流すことによって、その国と戦争をすることはやむを得ないことだというように誘導することもあるわけです。

いずれにしても、少し論理的に考えれば不安にならなくてすむかもしれないことに対して、メディアは不安をあおろうとする。そしてそれを読んだり見たり聞いたりしている個人も論理的に考えようとしない。まさに今の日本は国全体で情報の中のエモーショナルな部分に使っているというか、どんな情報もエモーショナルに見ようとしていると言えると思います。これは「情報をどの階層でとらえるか」という選別を自分で行っていないということです。情報を論理的にとらえることもできるし、エモーショナルにとらえることもできると分かったうえで、じゃあ今は情報をエモーショナルにとらえようと自分で選択をしているわけではないのです。

その結果、条件反射的に情報をエモーショナルにとらえて、その結果「これはいいな」とか「かっこいい」などといった情緒的な反応を重ねている。情緒的な反応を重ねていけば重ねていくほど、情報に頼らない判断はしにくくなります。もちろん、情緒的な反応がいつも全面的に悪いという話ではありません。ただ、情緒のエネルギーというのは大変強いものです。そこで特定の情緒につかまってしまうと、そこから抜けることが大変むずかしい。だから鬱からも抜け出せないわけです。そこから抜けるためには、ある意味、情緒と論理を切り分けて、論理で情報をとらえていくという努力が必要になると思います。一種の論理療法ですね。

ところが先にも書きましたように、そういう取り組みはされていない。鬱は精神の風邪だから、薬を飲んで治してくださいというようになっている。これは物事の本質からずれた解決策、いわば疑似解決策だと感じます。また、情報を情緒的に、エモーショナルにとらえていくと、情報の整理もできなくなる。その結果、たくさんの情報を得たとしても、それらの情報をハウツーとして活用することができていない。なぜならそこに論理的な利かいが入り込む余地がないからですが、これも大きなデメリットだと思います。

情動にハシゴをかける

話は少し戻りますが、今の女子大生が感情を表現するのに7つの言葉しか使っていなかったという問題は、確実に教育の問題だと言えます。つまり、情緒教育ができていないということです。情緒教育というとむずかしく聞こえますが、簡単に言うと、情緒を表す情緒語を知ることが情緒教育の中心になるはずです。これはナレッジモデリングの考え方から言っても理に適っている。つまり、情緒を表す言葉を、漏れなく、重複なく、かつすべてを網羅するように学べば、ある特定の情緒につかまってしまうことはなくなる。

なぜかと言うと、他の可能性が目に入るようになるからです。そうするとハシゴをかけるように、今の情動から、今より少しましな情動へ動き、その次にはまた少しましな情動に動きというようにして、情動から脱け出すことができるのです。そうするとハシゴをかけるように、今の情動から、今より少しましな情動へ動き、その次にはまたすこし少しましな情動に動きというよういして、情動から脱け出すことができるのです。そもそも、情動というものは常に変化しているものです。

ではなぜ今の日本で情動に関するなやみ悩みが蔓延しているのかというと、特定の情動から動けなくなっているから。そしてそれは情動を表現する言葉を知らなすぎるからです。情動に関する言葉を知らなすぎるということは、すなわち、情動の種類を認識できていないということです。そんな中に、まるで飛び石のように、ポツンポツンと少数の情動 が浮かんでいる。自分たちの感情を表現するために7つの情動語しか使っていなかった女子大生たちはまさにこの状態です。拾い池に7つの足場が浮かんでいる。この状態では今いる足場から他の足場に移動することはとても困難です。すうろどうなるかというと、ずっとその足場の上にとどまることになる。つまり、ひとつの情動からなかなか抜けられないということになるわけです。これが今の日本の情動的な問題です。

情緒語を読む効果

ではどうやってそこから脱け出すのか。この方法はむずかしくありません。情緒を表す言葉のボキャブラリーを増やすだけでいいからです。それだkで人の情緒のとらえ方が劇的に変化あする。先の女子大生の例で言えば、今、広い池の中に7つの足場しかなかったところに、次次と足場が増えていくわけです。そうすると、今いる足場から次の足場に移ることも容易になってくる。

最終的にはナレッジモデリングの定義にあるように、漏れなく、重複なく、かつすべてが網羅されている状態になるわけですが、そうなると池だったものがもはや地続きの陸地のようになる。そうすると、情動から情動への移動がものすごく簡単になる。その結果として、情動の病から脱け出すことが簡単にできるようになるはずです。ですので、たとえば感情擁護の19分類とその中身を何個でもいいから言っていく。そういう取り組みをいつからでもいいですから始めるtおいいと思います。実際に試してみれば分りますが、情緒語をいくつか読み上げるだけで氣付くものがある。「あ、自分の気持ちってこんな内容だったんだ」というような、そういうところから心が広がる感覚を感じられると思います。別の言い方をすれば、今の世の中は情緒に溺れているわけだから、逆に情緒をみんな確定していくと溺れることがなくなるということです。そうなるためには情緒語を読むだけでいい。その他に情緒に溺れないための教育としては、私たちの実験では子供たちの場合は演劇が効果的でした。劇を演じる際にはそもそも今の自分の中にはない情緒を自分で作っていく。そのプロセスをとおして通して情緒の確定がしやすくなるためだと思われます。そういう機会を子供たちに提供するといいのではないかと思います。

情緒の観察者を育てるデジタル教育

今は情緒に溺れている時代だと書きましたが、ナレッジモデリング的に見てみると、まず情緒を確定するための情緒語が欠けまくっている時代だということができます。漏れなく、重複なく、すべてを網羅しているという状態からは程遠いわけです。しかも、マイナス要素の部分だけがとてもぶあつく分厚く重なっている。だから、マイナス要素が重なっている部分は取り除いてやる。逆に、ピースが埋まっていない部分には情緒語のピースをはめ込んでやる。情緒に溺れている中から浮かび上がるためにはこういう作業が必要になると思います。

その作業のやり方のひとつが先ほどご紹介した情緒語を読み上げる方法であり、強制的に自分で情緒を作り上げる演劇であるわけです。これはつまり、情緒の観察者になるということです。ここで面白いのは、アナログである「情緒」の観察社になるために、デジタルな教育が必要になるということです。デジタルな教育という言葉を私は、何の感情もなう、ただ淡々と対象物を見ていくというような意味で使っているのですが、たとえば、パソコンに情緒語をずらった表示して、それをただただスクロールして見ていくというような作業が情緒を確定するためには有効になる。このお話しは機器の発達によって、このようなことが可能になったんだよと言う意味でとらえていただければいいのではないかと思います。